ひとくち説法
2013年11月20日号
熟練の読誦練習
学習の「学」は真似ること、「習」は馴れるが始まりといわれます。信仰の場合、ただ馴れて習慣になっても正しくなかったら意味を成しません。慣れるでなく「熟練」の「熟れ」でなければならない。それには師について正しく真似る、良く耳を傾け良く聴き、「凝視」し良く観る、正しく読誦し、唱えないといけない。
「南無妙法蓮華経」のお題目は「ナム、ミョウホウレンゲキョウ」と七字をハッキリ唱え、「ナンミョウ・ホーレンゲイキョー」ではありません。また開経偈の「無上甚深微妙の法は」では「ムジョウジンジンミミョウのホウは」で、「ムジョウのホウ」でも「ムミョウのホウ」でもありません。宝塔偈「此経難持・若暫持者」は「シキョウナンジ・ニャクザンジシャ」で「シキョウナンジ・ナクナンジシャ」ではありません。
指導を正しく、教わる方は、良く聴き熟練の学習を!
(新潟西部布教師会長・中嶋 教高)
2013年11月10日号
大慈懐(おおいなるじひのふところ)
長年、難病の夫を介護しそして看取り、その後また同じ難病を発病した息子のM君を介護しつつ、明るく生きる母子の姿を昨年小欄で紹介した。
そこには苦境のなかで「苦をば苦と悟る」尊敬すべき家族の姿があった。その後、妙薬もないまま次第に悪化するM君の病状を話す母に疲労の色は隠せない。毎日、徒歩と電車で片道一時間強の道程を病院まで通う。齢七十を越えている。
久しぶりに「あの笑顔」のM君にあうべく病床を訪ねた。驚いた様子で私を見ると、彼は悲痛な面持ちで何事か訴えるように声を発し始めた。
しかし残念ながら言葉にならず私には理解できない。「ごめんよ!々」どうしようもなく悲しく、申し訳なかった。為す術もない私は、いつしか彼の肩から腕にかけて撫で、擦っていた。すると彼の顔は穏やかになった。うららかな春の海を見るようだった。きっと私とM君は、本仏釈尊の大いなる慈悲の懐に抱かれているのだと思った。
(新潟東部布教師会長・眞島 文雄)
2013年11月1日号
最後の仕事
高齢期になり、人生の最期を「自宅で迎えたい」と考えている人は多い。しかし、現実は8割以上の人が病院で死を迎えることとなります。多くの高齢者は、病院のなかで管につながれ、生活が管理され、したいこともできずに、最後の日々を送るのを余儀なくされています。そんな日常性が遮断された病院生活のなかで幻覚や妄想にさいなまれて、かけがえのない人生の最期を迎えることはとても辛いことです。
最後にできる高齢者の仕事は、その人生を見事に演じきった、その姿を後を行く人に伝えることではないでしょうか。自宅で子供や孫たちに囲まれ、できればお仏壇の前で、お題目信仰で臨終正念を遂げる、その姿こそ子や孫への最大の教化になるのではないでしょうか。そのためには在宅で最期を迎える強い意志と家族の協力、医療・介護のお手伝いも必要になります。そして、事前指示書の作成という準備も必要です。
(三重県布教師会長・冨田 啓暢)