オピニオン
2013年11月10日
大慈懐(おおいなるじひのふところ)
長年、難病の夫を介護しそして看取り、その後また同じ難病を発病した息子のM君を介護しつつ、明るく生きる母子の姿を昨年小欄で紹介した。
そこには苦境のなかで「苦をば苦と悟る」尊敬すべき家族の姿があった。その後、妙薬もないまま次第に悪化するM君の病状を話す母に疲労の色は隠せない。毎日、徒歩と電車で片道一時間強の道程を病院まで通う。齢七十を越えている。
久しぶりに「あの笑顔」のM君にあうべく病床を訪ねた。驚いた様子で私を見ると、彼は悲痛な面持ちで何事か訴えるように声を発し始めた。
しかし残念ながら言葉にならず私には理解できない。「ごめんよ!々」どうしようもなく悲しく、申し訳なかった。為す術もない私は、いつしか彼の肩から腕にかけて撫で、擦っていた。すると彼の顔は穏やかになった。うららかな春の海を見るようだった。きっと私とM君は、本仏釈尊の大いなる慈悲の懐に抱かれているのだと思った。
(新潟東部布教師会長・眞島 文雄)