論説
2019年11月20日号
看取り士
旅立つ人を支え、送る側の人びとと共に心に寄り添い最後を見届ける人を「看取り士」と呼んでいる。映画『みとりし』を観た。主人公は原案『私は、看取り士』の著者・柴田久美子さん。
柴田さんは、食品販売店を退職後、特別養護老人ホームの寮母となった。父親の死をきっかけに、看取りの世界に入った。「死は医療の敗北」と言う概念に疑問を持ち、病院のない島根県の離島に移住。空き家を買い介護施設「なごみの里」を設立。柴田さんは逝く人を抱きしめ、その体温を感じながら安らかな気持ちになれるよう看取り方法を工夫した。その家は島の人から「看取りの家」と呼ばれた。最後まで看取ってくれるからだ。やがて活動拠点を岡山に移した。多くの臨終場面に接した経験から「看取り」の考え方やその方法を体系化し、一般社団法人「日本看取り士会」を設立。看取り士養成・看取り学講座など看取りに関する啓発活動に取り組んでいる。
看取り士の基本的役割は、第1に本人や家族との相談。自宅や病院など、どこで最後を迎えたいのか、家族や友人など誰に看取られたいのか、どのような終末医療を希望するのか、旅立ったあと葬儀や墓地などの不安は無いかなど相談。第2は、寄り添い。本人の希望や家族の気持ちを聞き、在宅医やヘルパー、ケースワーカーなどケアする人たちと意思疎通を計り常に寄り添いできるよう準備する。第3は呼吸合わせである。連絡を受けるとすぐに駆けつけ、旅立つ人の呼吸に合わせ1つひとつの動作を丁寧に行う。看取りの時は、本人を抱きしめそっと触れ合いながら呼吸を合わせる。体に触れ呼吸を合わせることにより安心感が伝わるという。第4は、看取りの作法である。臨終とは「臨命終時」のことで「いのちの終わりの時に臨む」の意味。家族や周囲の人に交代で旅立つ人を膝枕していただき、そっと体に触れながら呼吸を合わせお別れできるよう促す。第5はいのちのバトンリレーである。人は体が朽ちても魂のエネルギーは残る。看取り士は、看取りの呼吸法や抱く姿勢を説明し、旅立つ人の魂のエネルギーを家族など周りの人びとに渡す手伝いをする。死は穢れではなく、旅立つ人のいのちを家族にバトンリレーする瞬間と解釈。旅立ったあと数時間はその人の温もりが残り、その温もりを感じることが家族や介護者のグリーフケアになるという。
心性院日遠上人(1572~1642)の著作『千代見草』には法華経とお題目の精神に基づく看病の心得が記されている。「死を間近にしたら病気と薬が競い合うので病人が悶え苦しむ。末期には薬は中止すべき。病人の室内に入る場合、気を静めて入り、病人の弱い気に自分の気を移してから話すべき」など看取り士の考え方との共通点が理解できる。
NVN(日蓮宗ビハーラ・ネットワーク)では法華経とお題目の精神により病気や障がい、高齢化に悩む人たちと苦しみを共にし精神的、身体的な苦痛を取り除き安心が得られるよう支援する活動に取り組んでいる。東京五輪の5年後2025年に団塊の世代が75歳以上となる。超高齢化社会、つまり「多死社会」を迎える。その5年後には病院や施設、自宅でも死ねない孤独死を中心とした「看取り難民」が47万人に達するという。法華経信仰者だった聖徳太子は大阪四天王寺に敬田院(寺院)・施薬院(薬局)・療病院(病院)・悲田院(社会福祉施設)の四箇院を設置した。かつて僧侶は、宗教者、薬剤師、医師、施設長を兼務してたことを意味する。NVNの活動に一層期待したい。
(論説委員・奥田正叡)
2019年11月10日号
新時代への決意と立正安国・お題目結縁運動
大自然の異常現象
まずは、10月の台風19号で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げ、被災した方々に心よりお見舞い申し上げます。
9月の15号台風に引き続いて10月の19号台風は、今までに経験したことのない程の暴風や豪雨をもたらし、日本列島に激甚の災害をもたらしました。
特に19号台風は、「100年に一度」という程の雨量となり、被害は35都道府県に及びました。全国で52河川が氾濫で決壊し、流失、浸水の家屋が続出し、未曾有の大水害となりました。
10月21日現在で、死亡した方は82人、行方不明の方は11人と発表されています。
近年、地球温暖化により、異常気象が続いていますが、今ほど地球の安穏と人類の平和への努力が要請されている時はありません。
日蓮聖人は立正安国論に、
「国を失い、家を滅せば、何れの所に世を遁れん。汝須く一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を祷るべきか」(国が亡び家を失ってしまえば、いったいどこに逃れる所がありましょうか。一身の安穏を願うならば、まず何をおいても世の中の平和を祈らなければなりません)と説かれております。
新しい時代への決意
台風の被害から復旧へと立ち上がっていた10月22日、新天皇陛下の「即位の礼正殿の儀」が行われました。
国内外から2千人が参列した中で、陛下は、「ここに国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います」と述べられました。
上皇陛下が30年の在位の間、世界の平和を願われて、国民と苦楽を共にされて来られたことの御心を引き継いで、令和の時代も世界平和を希求していかれることを世界に宣言しました。
令和の新時代の目標を、「世界平和」という大目標に決意されたことは、新しい時代の将来に光明が差してくる思いです。
天地は人類の鏡
日蓮聖人は、「天地の国の鏡」といわれました。今や天地は世界人類の鏡であります。
この度の陛下の即位には、海外から191か国・機関などの代表が参列されました。このことは、国は一国主義ではなくて、世界人類・地球国家の一員として考えていかなければならない時代であることを示しているように思えます。
したがって天地は、同じ天地の地球に生きる世界人類の鏡であります。
その人類は私達一人一人から構成されていますので、「天地は私達一人一人の鏡」であるとも言えます。
さてそうなると私達の責任も重大です。その責任を自覚し、行動していくのが、「立正安国・お題目結縁運動」であります。
立正安国・お題目結縁運動
いま人類社会は平穏無事でしょうか。あえて悲観的に見るわけではありませんが、天災地変があり、テロがあり、戦争があり、新型核兵器の開発競争があり、諸々の不安材料が横たわっています。
特に自然大災害を引き起こす温暖化対策は緊急の問題です。地球を破壊し人類を滅亡に導く核兵器の廃絶の問題も急を要しています。
立正安国のお題目の祈りは、私達が世界人類の平和・地球国土の安穏の中で生きるための祈りであります。
この祈りを持って、それぞれの天命に生きていくことが、私達人類一人一人に課せられた使命であります。
(論説委員・功刀貞如)
2019年11月1日号
カタチを継承し、心を伝える
―小学生の子どもが自分のやり方で食器洗いをしたがり洗剤の泡だらけの食器が戸棚に入っていた。母親はその子の自主性を尊重して子供が寝てからこっそりやり直したそうだが、正しいやり方は教えなかった。また別の家では、ケーキの飾り付けだけ、ホットケーキの焼くところだけと、やりたいことだけ(自発的に)「お手伝い」したがる子供達のために、準備に追われる母親もいる。働いているため忙しく時間がなく、「やりたがるお手伝いをさせてあげられない」と悩むお母さんの声は、もう聴き慣れた表現となってきた―
右の内容は『地域人』(大正大学出版会)に連載される岩村暢子大正大学客員教授による「食卓から見たニッポン人の変化」から【お手伝いと親子の伝承】と題した文章の一部である。
氏は、20年以上にわたり食卓を通した現代家族の研究を続けてきた。本文の中では、子どもの手伝いは「させる」のか「してもらうのか」の調査結果と合わせ考察が加えられている。
それによると60歳未満の親、 つまり50代までの親では、「子どもに手伝いをさせる(手伝わせる)」という言い方をする人はほとんどいないという。大抵は、お手伝い「してもらう」「してくれる」で、若い親では「お手伝いさせてあげる」「させてあげられない」という冒頭に紹介した表現をする人が多いとのこと。
この背景には、1960年の「育児書ブーム」以降、急激に浸透した新しい育児思想があると考察。親や大人が子どもたちに対して権威的な姿勢で厳しく型にはめ込んでいくのではなく、子ども中心の思想に変わったと指摘される。
また、子どもの自主性と自発性を尊重する教育は素晴らしいと評価しつつも、おふくろの味・郷土料理・行事食、さらには地域の祭りや伝統行事が家族で伝承されにくくなる要因の1つに「受け手」である子ども中心の親子関係があることが否めないとも示されていた。
氏が結論で述べられる、伝承の多くは受け手のやりたいかどうかの意思や自発性とは関係なく、日常の暮らし中で長い間、繰り返されることによって、いつの間にかその人の心や身体に刻み込まれて伝えられてきたものが多く「受け手がその【意味】や【価値】に気づくのは、きっと随分あとになってからだ」との見識に首肯した。
平成27年、日蓮宗宗務院伝道部は『檀信徒 信行の手引き~檀信徒のこころえ』を発行した。20頁ほどの小冊子ながら、仏事作法に込められた心とカタチについて重要項目にしぼってまとめられた良書である。
本書は、早水日秀師監修のもと、上田尚教師・本田義純師が宗定日蓮宗法要式の観点、大西秀樹師が教化の立場、伝道部が日蓮宗宗制との整合性の見地から編集された。
序文には「カタチを継承していくことによって、目には見えない心を伝えていく」として、仏祖への尊崇敬慕の発露としての作法、先祖に対する感謝尊敬の気持ちを供養という作法で伝える大切さが記されている。
同時に心の乗らない伝え方としての「形骸」に対しての警鐘を鳴らしている。なぜなら、形骸は心ばかりか、カタチそのものの喪失につながるからである。
私どもの日々の信行は、仏祖から先師先人を経て今日に伝わるお題目の信仰である。通夜・葬儀に始まる仏事、年中行事の寺参り、相手を敬う合掌も「受け手」中心の導き方ではなく日常の暮らしの中で繰り返すことが肝要ではあるまいか。(論説委員・村井惇匡)