2023年10月1日
佐渡・身延で聖人が得た「確信」
日蓮聖人は、数えの50歳(文永8年・1271)から53歳まで、流人として佐渡国で過ごされました。自然環境の厳しい佐渡でのご生活は、老いを迎えられた聖人にとって、想像をはるかに超える困難な状況でありました。それは、聖人が鎌倉幕府の下した流人ですから、周囲の人びとは、罪人として受けとめ、種々に怨をなすのです。夜陰に乗じて、聖人の生命をうばおうとする人びともありました。
あるいは、聖人は仏教の教主がお釈迦さまであることを主張され、『法華経』の「如来寿量品」に説かれる久遠の釈尊を中心とする仏教観を掲げられたのです。そのことは、当時多くの人びとが心を寄せた西方浄土の阿弥陀仏信仰や真言宗の大日如来信仰を基とする人びとにとっては、みずからの信仰が批判されることですから、聖人に怒りをあらわにしたのです。
このような境遇にあって、聖人の教えに耳を傾け、聖人を生命がけでお守りしようとする人物もありました。それは、阿仏房夫妻、国府入道夫妻です。阿仏房、国府入道は、聖人が流罪赦免後、ともに甲斐国(山梨県)身延山に入山された聖人を数度にわたって訪問しています。これらのことは、聖人が阿仏房の妻、千日尼に与えられた手紙、同様に国府入道の妻に与えられた手紙からうかがえます。
聖人にとっては、佐渡流罪は、生命にかかわる厳しい処断でありました。しかし、法華経に説かれる経文を、みずから身体をもって証明しようとされる聖人の法華経の読み方は、勧持品の「数数見擯出」(しばしば修行の場所から追放される)の経文を、2度の流罪をとおして、如来の教えが真実であることを証明した、とのご自覚を鮮明にされることになります(『寺泊御書』文永8年)。そのご自覚のもとに、逆境にありながらも、長文の『開目抄』(文永9年2月)を撰述され、私たちに、聖人が末法の世に釈尊から遣わされた「法華経の行者」であることを諭されているのです。
ついで、聖人52歳の文永10年4月25日、聖人が出世の本懐として認識されている『観心本尊抄』を執筆されることによって、久遠の釈尊は、深い教えのお題目を末法の世の人びとを救済することを目的として、地涌の菩薩(上首たる上行菩薩)に手渡され、末法万年の私たちが最も尊い教えとして、すなわち、私たち末法の凡夫救済の要法として、付嘱されていることを顕示されることになります。
日蓮聖人は、天台法華宗の僧として出家されました。しかし、大恩教主釈尊に直参される聖人にとって、大恩教主釈尊のご本懐は、末法の人びとを救うことにあることを感得され、2度の流罪を体験されることによって、自己が釈尊から末法の世に遣わされた如来の使者、すなわち上首唱導の師(上行菩薩)としてのご自覚に基づいて、『観心本尊抄』を執筆されているのです。
聖人は、足かけ4ヵ年ののち、佐渡流罪の赦免を経て、身延山へご入山になられました。今年は、まさに750年に当たるのです。
聖人は、9ヵ年間身延山に在住されます。それは、『観心本尊抄』において明らかにされた、最も大切なお題目、つまり久遠の大法がいよいよ広まるべきことを確信され、重要な著書を著わされます。それが、『撰時抄』、『報恩抄』にほかなりません。
これらのことから、聖人の身延山在住の9ヵ年は、私たち末法の凡夫救済を確信された大法広布としての大切な期間なのです。 (論説委員・北川前肇)