2023年9月10日
いただきます
京都の清水寺・成就院に、圧倒的なイワシの大群の中に1人の少女がたたずむ中島潔の襖絵がある。金子みすゞの「大漁」の詩を題材にしたものである。
「朝焼小焼だ/大漁だ/大羽鰮の/大漁だ。/浜は祭りの/やうだけど/海のなかでは/何万の/鰮のとむらい/するだろう。」(金子みすゞ『大漁』)
子どもの頃、初冬の近隣の漁港はハタハタ漁でにぎわい、毎日の食卓がハタハタであったことを思い出す。同級生の弁当のおかずがみんなハタハタであった。
私たちは海の幸の魚介類を食料としていただき、大漁であることは喜ばしいことととらえがちであるが、魚介類の視点でとらえると立場が逆転することをみすゞの詩は見事に表現している。日頃そのことに無自覚である身にとっては、背筋が凍る思いである。
文殊師利菩薩は海中で無数の衆生を教化した(法華経提婆達多品)。8歳の龍女もその中の1人で、子どもであり女性であるにもかかわらず、文殊師利菩薩の説く法華経を聴聞することによって子どものまま、女性のままで成仏したとされている。
ということは、私たちが食料としていただいている魚介類は、かつて海中で文殊師利菩薩の法華経の教化を受けたものたちの末裔、つまり、仏の種が植えられたものたち、み仏の子どもたちであるといっていいであろう。
みすゞは、大漁にわく浜と、その弔いをする海中とを視点を変えて描写しているだけではなく、また人間も魚介類もともに大切な命であることをいっているだけではなく、海中の魚介類も実は仏法の教化を受けていた尊い命であることを暗に示唆していると理解したい。
『いのちに合掌』の対象は人間だけではない。日々食糧としていただいている魚介類も、すでに遠い昔に『法華経』の下種を受けた尊い「いのち」である。かといって自然のままですべてが成仏するということではない。
私たち人間は動植物の尊い命を食糧としていただかなければ生きていくことができない。根源的なジレンマである。日蓮聖人はこのジレンマをどのように乗り越えよと教えているのであろうか。私たちは、尊い命を食糧としていただいた我が身を成仏させることによってしか、私たちのために命を捧げてくれた動植物に報いる道はないのではないか。私たちの心身の栄養となった動植物に、わが身と共に本仏釈尊からお題目の結縁を請い、ともに成仏を願うことがお題目を身に読む生き方ではないかと私は思う。
人間が排出するプラスチックなどの廃棄物や有害物質によって海や川が汚染され、地球規模の環境汚染が巡り巡って人間の生命を脅かしていることが近年注目されている。人間中心の視点で考えれば、環境汚染が人間の生命を脅かすことになるといえようが、みすゞ的視点に立てば、環境汚染は人間だけではなく魚介類を含めたすべての生き物の生命を脅かすことになる。海や川の中に生きている多くのみ仏の子どもたちの命を脅かすことである。そのようにとらえて環境の保全を願うことが法華経的視点であるといえよう。
海や川や大気を汚染することは、人間だけではなく、魚介類を含めた多くの動植物、地涌の菩薩たちの生命を脅かすこと、ひいては仏の子の命を脅かすことになり、この世にみ仏の浄土を顕現するという釈尊の付託に反することになるのだ。
毎食前の「いただきます」に、「お題目によって、共に成仏しましょう」という意味を込めたい。 (論説委員・柴田寛彦)
