2022年11月1日
三界は安きことなし
なんということであろうか。
コロナ感染症第7波が収束しつつあるとはいえ、今後も繰り返し変異した新しい病原体と戦い続けなければならないであろうことが現実的であることを日々思い知らされている。
さまざまな最新兵器を駆使し、サイバー攻撃などを伴って、時には核兵器使用をちらつかせながら、強国が他国を侵略して自国領土にしてしまうという暴挙が、今この21世紀に現実に起こっており、国連も抑止不能の状況が身近に生起している。
総理大臣経験者が大衆の面前で殺害され、その映像が衆目に晒されたり、理不尽な事故に巻き込まれて命が脅かされる事例が日々報道されている。
こうした状況は、まさに安心と安全、平和を求める私たちに火の粉が降りかかり、社会全体が大火に燃え上がっているようなものである。
法華経では、「私たち人間は、燃え盛る火に囲まれた家の中に住んでいるのに、そのことに気付かず、あるいは気付いていてもそこから逃れるすべを知らない子どもたちのようだ」という。
火に包まれた家から逃れ出る方法は、釈尊が私たちに教え導こうとしている道であるが、それは、決して燃え盛る家から逃げ離れて超然として遠望することではない。火災とは無縁な別の世界に移住することで良しとすることでもない。燃え盛る家のそばにいて、まだ中にいて苦しんでいる者たちに手を差し伸べ、火災の源を断つための努力を不断に続ける困難な道である。あたかも万全な装備をした有能な消防隊のようなものである。
いや、有能な消防隊であれば、出火した火を素早く消し、家の中に閉じ込められた被災者を助け出すことができるであろうが、出火の原因、大きく燃え上がる原因は、そこに住む人びとの日常の心構えと行いにあるのであるから、それを改めなければ本当の解決にはならない。
釈尊は、火災の原因である心の迷いを正すことこそが根本的な解決法であること、そのための方法を教えている。そして、心の迷いを正すことを志すことが菩薩の行いであるとする。
このように考えると、コロナの問題は、自分が感染しなければそれで良しというものではなく、この感染症の原因、予防法、治療法を探り、感染した人の治療に協力し、社会不安を軽減するよう尽力することが、釈尊の教えにかなう道であると言えるのではないだろうか。
またウクライナの問題は、戦争が身近に迫っていないことで良しとするのではなく、国際社会に訴えて戦争の終結を促す非暴力による努力を続け、現実に戦火に苦しむ人たちに支援の手を差し伸べることこそが法華経的対応と言えるのではないだろうか。「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とするユネスコ憲章前文の精神は、釈尊の教えに合致するものと理解したい。
日々報道され社会不安を募らせる犯罪や事故に対しても同様である。犯罪や事故の起こらない社会にするべく不断の努力をするとともに、被災者の傷ついた心を癒やすべく、寄り添うことが菩薩の行いであろう。
そうした菩薩たちのいる社会が、たとえ事件や事故、あるいは戦争が根絶できないとしても、仏の浄土であると考えたい。
お題目はただ唱えればよいというものではない。しかし、唱えなければ真実は見えない。唱えつつ実践する困難な道を歩むべきことを、日蓮聖人は教えておられる。(論説委員・柴田寛彦)
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