2022年7月1日
すべての事象が師であり仏祖の導き
【法師】とは僧侶の呼称の1つで古来「のりのし」と訓読し、仏法を教え導く師、仏道の指導者の意を持つ。また「法を師とする」生き方とも受けとめることができる。回想するとき愚者である自己にとって周囲の人、すべての事象が師であり、仏祖の導きであったと感じる。
過日、法友と【師僧】について語り合った。法友いわく「本師(釈尊)、祖師(日蓮聖人)、戒師(出家得度の師)、読師(読経指導僧)、学師(教学学問の教授僧)、伝師(加行所で秘儀伝授、行僧の訓育、修法相承の行儀を行う僧)など、本来ひとりの僧侶を育てるには、何人もの師が必要。手続上、師僧は1人ではあるが、真摯に求道する限りにおいて師と仰ぐ人は何人もいるもの」との言に首肯した。
3月10日『朝日新聞(夕刊)1語一会』は、神戸女学院大学名誉教授で哲学者・内田樹氏をとりあげた。兄の内田徹氏は生前、弟を「弟子上手」と評した。知識や偏見にとらわれず、誰に対しても心を開き教えを請う姿勢を持つことは容易ではない。兄は弟がいたるところに「師匠」を作る生き方に、しみじみ感心したという。
分野を問わず専門家の懐に飛び込み、知識と視点を授かる。その蓄積がジャンルの境界を超えたしなやかな論考につながる。自我を強めるのではなく、人に聞くことを通じて【自己解体】を繰り返す。いわば、教えを請い己を変え続ける姿があると取材した佐藤啓介氏は記す。
さまざまな【師】を尋ね教示を受け【自己解体】を重ねるとき視界が開け思考行動に変化が訪れる。それはあたかも、同じ街並みや景観も地上と上空から見るほどに違い、歩き方進み方が変わるように。
他方、教える側の「心得」なるものはあるのだろうか。筆者の細やかな経験ではあるが、僧侶の教育機関で訓育現場に立つ場合、あるいは少年刑務所や仮釈放後の保護観察に関わる中では【手間暇】を心掛けている。
僧侶の教育機関も矯正施設での教育、保護観察対象者への更生指導は、いずれも専門的プログラムに準じて行われる。これは【手間】の部分に相当し、技術指導を含め訓育僧侶や専門官が負うところが大きい。またプログラムに改善を加え効率化をはかることも可能である。
しかし、対象者の内面の成長や変化に対しては効率化とは逆に「待つ関わり」=【暇】をかける存在が欠かせないのではないか。僧堂修行での信行師範、または教誨師や保護司が時を共に積み重ねることにより当事者にとって、そこが「学び」と「気づき」の居場所となり、変化や成長を促し歩み出す力を得られるのではあるまいか。
《古語では「愛し」「美し」も「かなし」と読む。民藝運動を提唱したことで知られる思想家の柳宗悦は、悲しみとは、一緒に悲しむ者がある時にぬくもりを覚えるものであり、慈しみでも愛しみでもあるとした。そして「悲しみを持たぬ愛があろうか。それ故慈悲ともいう」と言った。自分1人で抱えていては悲しみで終わる感情は、他者へと向けられた時、思いがけず発熱し、美しいつながりを生みだす。》(秋山千佳著『実像 広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実』あとがき)
コロナ禍は此の地上で起こったことである。同じ場でありながら眼に映る風景も心象も今までとはすべて異なる。塗炭の苦しみとは、泥水や炭火の中に落とされたような境遇をいう。コロナ禍を共有した私どもは、人心、社会の再構築に手間暇を惜しまず、互いに主伴となって「いのち」を紡いでゆかなければならない。
(論説委員・村井惇匡)