2022年6月10日
弾圧を乗り越えた先聖
日蓮聖人は、32歳の建長5年(1253)4月28日を起点として、自己の生命をかえりみられることなく、末法の世の人びとが大恩教主釈尊の救いにあずかれるように、お題目を唱える信仰を勧奨されてきました。すなわち、聖人の出家の目的は、釈尊のご本意をしっかりと受けとめ、そのご精神を末法の人びとに対して大灯明としてかかげることでありました。つまり、聖人は「智者」となることを目指されたのです。
しかし、聖人の題目弘通のあり方に対して、多くの法難が待ち受けていました。ことに、東国の鎌倉に幕府を構える北条政権は、40歳のときに伊豆国へ流罪に処し、50歳のときには、北国の佐渡国へ配流し、聖人のみならず、弟子、信徒にまで宗教的弾圧を加えたのです。
聖人は、50歳から53歳までの数えの4ヵ年を幕府の監視のもと、佐渡において、流人として過ごされます。今日から、750年も前です。
このように、佐渡の厳しい境遇の中にありながらも、32歳からの法華経弘通、そして題目受持の生活を回顧されつつ、「今日切る、あす切る」(『報恩抄』・昭定1238頁)という生命の危機に直面されながら、長編の『開目抄』、そして聖人の全存在をかけられた信仰の書である『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』(略称『観心本尊抄』)を執筆されるのです。
ところで、2度目の佐渡流罪は、伊豆流罪と比較して厳しい弾圧であったことが知られます。『開目抄』の一節には、つぎのように記されています。
「国主からの法難は2度にわたっています。ことにこのたびの佐渡法難は、私自身の身命におよぶものです。それのみならず、私の弟子たち、さらには信徒たち、また私の教えをわずかでも聴聞する世俗の人たちにまでも、厳しい罪科が課せられています。あたかも、国主に敵対して、反乱をくわだてているような処罰です」(現代語訳・昭定557頁)
さらには、この佐渡流罪の折には、鎌倉にあって千人の中、999人までが、聖人のもとを去っていった、との手紙の一節が見られるのです。
けれども、このような恐怖の中にあっても、けっして退転することなく、鎌倉から流罪の地である佐渡まで、1人の幼ない女の子とともに、聖人のもとにおとずれた女性信徒が存在したことを、私たちはけっして忘れてはならないと思うのです。
聖人が『開目抄』を完成された文永9年(1272)2月の頃は、地頭・本間重連の館の後方に広がる埋葬地に建てられたお堂を住居とされていました。やがて、その年の4月頃には、「佐渡の国佐和田の郡石田の郷一谷」(『一谷入道御書』・昭定994頁)へと移られ、一谷入道のあずかりとなっていたことが知られます。その一谷の地へ、はるばると鎌倉の地から、みずから身命をかえりみることなく、法華経信仰のもとに、多くの困難を克服して、幼ないお子とともに1人の女性信徒が訪問したのです。その求道心をたたえられた聖人は、「日妙聖人」という法名をさずけられています。そのお手紙(『日妙聖人御書』)の末尾は、文永9年5月25日とあり、あて名は「日妙聖人」と明記されています。
いまあらためて、日蓮聖人のご誕生800年を迎え、佐渡流罪750年に当たることに思いをいたしますと、聖人の慈悲の深さと、その教えを、今の私たちに手渡してくださっている先聖に頭を垂れ、感謝しないではいられないのです。
(論説委員・北川前肇)