2022年5月20日
獐鹿のごとくならず
私は筆不精だった。だから、欠礼は日常茶飯事で、たくさんの人に不愉快の念を抱かせたに違いない。今のようにスマホを用いてネット情報を集めて文章を考え、上手に季語を使って枕から時候の挨拶、本文へと移り結語を記して敬具と締める。個人に蓄積されてきた知識という情報を、頭の中の引き出しから選んだ単語を、巧みにつないだ文章を推敲するような時代ではなくなったのか。
今どきの季語といえば「薫風」、先代の本葬の案内状を印刷するときに、甲府の大宣堂印刷の往時の社主が教えてくれた言葉だ。儚い桜の花が散り落ちて、風の向きが変わったころに薫る新緑のむせるような、しかし心がはずむような、芽吹いた命が確かに成長している喜びを感じる言葉だ。「今どき」と記したが、おそらく読書子諸兄姉は「すでに緑陰」と感じられているかもしれない。この時期、初夏を感じるような暑さになっている地域も多いことだろう。
AP通信によれば、地球の北極と南極では2022年3月半ばに熱波に見舞われ、現在でも平年の気温より30度ほど高く推移しているという。同様の報告が、アメリカの世界資源研究所やIPCC(気候変動に関する政府間パネル)からも届いている。すでに両極を形成している氷河が融解して海面上昇も起きている。地球温暖化の兆候だ。小生の住んでいる身延山でも、枝垂れ桜の開花時期が昭和のころと比べると1週間ほど早まっている。皆さんの生活域でも、季語の選定に戸惑うほど、同様の変化は顕著だろう。
私たちは共有の資源を享受して生きている。生活に要する時間や空間は、私たちが共有している財産である。仏教では、この状態を示す言葉を共業といい、空間的に共有している生活上のあらゆる動的な状態を表す。対して個人的な活動は不共業、さらに業の発動を受けることが定まっていることを定業といい、いまだ定まっていない業を不定業という。定業は時間的な現れ方をさらに3種に分ける。行為の報いを今の人生で受ける順現業、次の生存で受ける順生業、それ以降の生存で受ける順後業である。共業であれ不共業であれ、行いの結果という報いは、反作用のように時間の経過を経て我々個人に、社会に何らかの影響を与えるという考え方である。
天変地夭に、政情不安、内乱ならぬ外戦、外の戦争は内需を潤すといった事象はすでに神話化している。実は、戦いは地球規模で一体化して相互に苦しむことを知らねばならない。否、その争いは父母・兄弟・親子の間で頻発している。相続や親権の争い、ネグレクト、ヘイトスピーチ、あらゆる人権の侵害は戦争だけに限らず絶えず日常に溢れている。
「十不善業道、貪・瞋・痴倍増し、衆生の父母における、これを観ること獐鹿のごとくならん。(訳:十種の悪業、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒が倍増して、人びとは父母に対して、追われる鹿が自分だけ助かりたいと仲間を見捨てるように、不孝の罪をおかすのだ)『立正安国論』」
日蓮聖人の言葉は重い。社会の変革を目指した聖人の生涯は似非情報との戦いでもあったが、聖人が拳を挙げたことは1度もなかった。情報の共有は財産である。その財産は、他者があればこそ価値を有する。他者を知り、己を発する便利なツールでもある。しかし、それは絶えず「善」と「悪」の二者間の対立を生み出し、容赦なく当事者を蝕む。そのなれの果てが紛争である。加担する宗教家、政治家に共業の報いはどのように現れるのか。座して「筆不精」などと言ってはいられない。
(論説委員・池上要靖)