2021年4月1日
「つながる」-東日本大震災から10年を迎えて-
50歳を越した私に、お姉さんでなく「おねいさん」と呼んでくれる人と出会い、10年の時が流れた。東日本大震災から10年という節目の年に、「今回は、津波が来なかったから良かったよ。おねいさんも頑張って。またおいしい魚おくってやっから」と届いたショートメールに胸が痛かった。「こんなに良い人たちを、これ以上苦しめないで」という思いが積もる。
2月13日深夜、マグニチュード7.3を観測した福島県沖地震後のやり取りである。ケガ人はいなかったが、すべての戸棚が倒れたと聞いた。当時の記憶が蘇って自然の驚異に愕然とし、再び恐怖を経験したことであろう。10年前の震災直後、東京教化伝道センター防災部の僧侶が中心となって現地に入り、犠牲者への慰霊、遺族・被災者への救済活動を行った。同年5月、宮城県女川町仮設住宅に私も同行した。ここで「おねいさん」と呼んで下さる人は、震災で避難してきたさまざまな家族たちとの新たなコミュニティーを明るく元気につなごうとしていた。「泣いてたって始まんないさー。生きてかなくちゃ。生きてるとお腹がすくだろ?」。被災者の皆さんにどう関って寄り添えるのかと気が先走り、緊張している私を察してなのか、大きなおにぎりを差し出してくれた。本来、他人を気遣う余裕などないはずなのに…、こみ上げる思いを「泣いてはいけない」と自分を戒めながら、おにぎりをほおばった。日本人の我慢強さとあたたかな情をここでたくさん見た。
時代をさかのぼると関東大震災当時、ポール・クローデル駐日フランス大使は、救済活動を指揮しながら、被災地で配給の行列に並び自分の順番が来るのをじっと待ち続ける風景を見ながら、「決して粉砕されることのないようにと願う、1つの民族がある。それは、日本民族だ。(中略) 日本人は貧乏だが、しかし高貴だ。被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間…私は、不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で、周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように、人びとは皆じっと静かにしているようだった」「廃墟の下に埋もれた犠牲者たちの声も「助けてくれ! こっちだ」というような差し迫った叫び声ではなかった。「どうぞ、どうぞ(お願いします)」という慎ましい懇願の声だったのである」とスピーチしたと記される。
女川の復興は、海との共存と若い世代へつなぐというコンセプトで進んできた。「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ。人びとは負けずに待ち続ける。新しい女川に住む喜びを感じるために」。当時小学校5年生が残した言葉に、強い意志と引き継がれている日本人の魂を感じる。今日に至るまでの苦悩と困難を、希望を忘れず実動し乗り越えてきた人びとを忘れてはいけない。あの頃、復興のために「誰かの役に立ちたい」という全国各地の人の意識が変化したことも。コロナ禍で、人との関わりに制限が強いられ感染リスク、ワクチン供給順位など(もちろん大切な協議であるが)思考が内向し、自分本位になってはいないだろうか? 「最近はさあ、かまぼこ工場にベトナムの若いおねえいさんたちが来て、その子たちのお世話がたのしいのさ…」。女川の水産加工業に携わる技術実習生の多くが、ベトナムから来ているという。彼女たちの話を大笑いしながら電話で話してくれた言葉。この思いを保ち続けることの意味が、まさに法華経を生きることだと思った。
(論説委員・早﨑淳晃)