2020年4月10日
情熱を失う時に、精神はしぼむ
春は希望に燃える時。境内の木々や草花を眺めれば、その思いを強くする。
朝、学校に通う子どもたちを見れば、ピッカピカの1年生が目に眩しい。
自分にも、あんな時があったなと思う人もいるだろう。
だけど、自分は、もう年だからなと呟くかもしれない。
他人のことを言っているのではない。私自身が、そんな愚痴をこぼすことが多くなった。
そんな時、出会ったのが、サミュエル・ウルマンという米国の詩人の〈青春〉という詩。
「年を重ねただけで、人は老いない。理想を失う時に、初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に、精神はしぼむ」という言葉を目にして、まさにその通りだと心に躍動感が戻ってきた。
そして、今ある、このいのち、生きている今、今日という日をちゃんと受け止めなければという気持ちになったのである。
宗祖・日蓮聖人のご遺文の中に、「いのちと申す物は、一切の財の中に第一の財なり」(『事理供養御書』)というお言葉がある。
そんなこと、当たり前。言われなくても分かっていると思う人は多いだろうが、今暫く宗祖のお言葉を追っかけてみたい。
このご遺文が書かれたのは身延山でのこと、宗祖の御年55歳の時である。
対告の衆は定かではないが、白米の他、多くのご供養をして下さった篤信の人への御礼状であったと思われる。
それも、食糧が底を尽くような山中での厳しい寒さに見舞われている時のことではなかっただろうか。
文中にある、「凡夫なれば、かん(寒)も忍びがたく、熱をもふせぎがたし、食ともし」とのお言葉を拝し、そう推測したくなる。
そんな状況にあって届けられたご供養の品々であれば、「白米は白米にはあらず。すなはち命なり」と述べられている宗祖の心からの感謝のお気持ちが、どなたの胸にも伝わってくるのではないだろうか。
子どもの頃、ご飯をこぼしたり食べ残したりすると厳しく叱られたことを思い出す。
そんな時、親が口にしていたのが、「米という字は八十八と書く。88人ものお百姓さんの手がかかって、お米はできたのだよ。1粒でもムダにしてはなりません。拾ってでもいただきなさい」という言葉。
現代っ子には通じない説教かもしれないが、そんな記憶のある人も少なくないだろう。
だけど、「そんなこと言っても、馬鹿にされるだけ」と思っているかもしれない。
そんな人に知ってもらいたいのが、ウルマン氏の、「人は信念と共に若く、疑念と共に老ゆる。(略)希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる」という言葉。
この人も、日々老いゆく自分と向かいあい、なんとかして青春を呼び戻したいと願ったのではなかろうか。
それならば、お返しに、このお手紙の中にある宗祖のお言葉を贈ってみたい。
「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」
このお言葉を耳にすれば、ウルマン氏も、なるほどと肯いてくれそうな気がする。
年を取ろうが、取るまいが、春は誰もが、今か今かと待っている季節に違いない。それならば、4月8日は、お釈迦さまの誕生日、28日は、我が日蓮宗の立教開宗の聖日だということにも気づいてもらいたい。
「帰命と申すは、我が命を仏に奉ると申す事なり」と宗祖はご指南なさっている。お互い、この際、いのちを、しっかりと見つめ直そうではないか。
(論説委員・中村潤一)