2019年7月1日
道徳の学校教科化について
新年度に入った頃、公立中学校で全校生徒を対象とする講演を寺の住職として行う機会を得た。この講演は、筆者が所属する人権擁護委員協議会に申し込まれたものであった。
同会では、1市5町1村の公立小中学校に対し、思いやりの心を育てる「人権教室」の実施を呼びかけてきた。ここに来て講話の依頼が相次いだ理由の1つに、今まで学校教育では教科外活動とされてきた道徳の教科化の影響があるように感じた。
事実、当該学校で渡された打ち合わせ資料には、【思いやりの心を育てる「人権教室」~道徳科~】と表題がつけられ、【ねらい~外部の方に思いやりの心を育てるための話をしていただき、道徳実践力につなげる】と記されていた。
担当教諭からは、学校生活が始まり1ヵ月を経た時にあたり、新入生や新たにクラス編成された在校生に、他者への思いやりのある接し方や言動についてヒントとなるような話を要望された。住職の話を聴いた生徒が、自ら考え行動へと結びつく内容が良いとのことであった。
筆者は、複数の公立中学校で、道徳科を用いた教育、さらには子どもたち自身による実践道徳のあり方について教諭たちが互いに意見を交え工夫を重ねる姿を見ることができた。あたかも、新たな教科となった道徳科のカタチとココロを育むさまを垣間見るようであった。
「道徳の教科化」案は、平成25年2月に第2次安倍内閣が立ち上げた教育再生実行会議で「いじめの問題等への対応について」と題する第1次提言の中で示され、学習指導要領改正に導入された。ただ、道徳の授業に対しては、特定の価値観の押し付けにならないかといった危惧や批判の声が報道されたことを記憶する。
平成30年3月28日、筆者の地元紙「埼玉新聞」では、紙面の大半を割いて平成31年度から始まる中学校での道徳に関する記事を掲載した。中でも、教科書や授業で扱う内容項目が厳密に定められていることを指摘し、指導の硬直化につながるのではないか懸念していた。
令和に入った5月17日、宗教界の新聞である「中外日報」の社説では、道徳の教科化を取り上げ、学校教育法施行規則第50条などで、私学においては「道徳」に代えて「宗教」とすることができる点を記している。社説執筆者は、「検定教科書による国公立学校の道徳教育と、独自教科書による宗教系私学の宗教教育は、同じ『特別の教科』という枠内で対比して考察することも必要になるだろう。多様な宗教教育が公的な道徳教育の適正さや歪みを照らし出す鏡になる可能性も考えられなくはない」と述べていた。
日蓮聖人は、世情の在り様を常に仏典に鑑み、仏眼をもって衆庶の善導教化の基となされた。今の世に生きる私どももまた、法華経やご遺文という「明鏡」に自己と他者、そして取り巻く世界を映し観ることを忘失してはならない。
あらためて冒頭に紹介した公立中学校の取り組みは特例であることに気づく。日々、教育の現場で生徒と向き合う教諭たちが道徳科教材にとらわれず外部講師を招くことを企画。人権擁護委員という公職を持つとはいえ、一宗派の住職を講師に迎えることは容易なことではなかっただろう。
徳の原字は悳であり彳印を加え、すなおな本性(良心)に基づく行いを示す。道徳科の柱は「どう考えるか」だという。誰を見つめ、いかに考え、どう行動するか、「明鏡」を持たねば道を誤る。
(論説委員・村井惇匡)