2019年2月1日
災害と共助の心
大きな自然災害が相次いでいる。西日本の豪雨での被災者が未だに仮設住宅で苦労されているという時、瀬戸内海では大切な橋が破壊されて不便な生活を強いられるという災害も起きた。九州以南の島々を含め、火山の噴火が相次ぐようにもなっている。報道されないものまで含めると世界ではマグニチュード6程度の地震は1週間に数回起きているという。これらの災害がマスコミで報道されると、若い人たちが現地にはせ参じるという素晴らしい風潮が全国にできあがっているのは、老僧としては頼もしい限りだ。
ところが、あまりにも次々に災害が起きるので、新しい事件事故の話題がクローズアップされると過去の災害に関する報道頻度が急激に低下する。ほとんどの情報をテレビやラジオに頼ることの多い我々は、以前の事故はもう解決済みであるかのような印象を受け、忘れ去ってしまうことが多い。
被害の大きさはニュース性にも比例するらしく、1万人の被災者と数人の被災者とでは扱いが大きく異なる。しかし、それら事件事故の個々の被害者にとっては苦しみに変わりはない。縁のある誰かがいつも見守っている必要があるだろう。
今年7月23日、ラオス南部のアタプー県で建設中だったセ・ピアン、セ・ナムノイダムが崩壊し、多くの犠牲者と行方不明者を出した。例によって日本での報道は微々たるもので、事故そのものを知らない人も多い。こちらは天災というより人災の要素が多いのだが、被災者から見ればそれはさしたる問題ではない。
10日後には早速現地に出かけ、情報を入手して自ら主催するNGOで募金活動を始めたところ、宗門寺院や僧侶、檀信徒も含め多くの人たちに協力をいただき、2ヵ月で340万円にもなった。これは現地で小さな小学校の校舎を建設できる金額だ。今後もアフリカや中南米などでも同様の出来事が起こりうるが、その時にはぜひ、そこに縁のある方や団体に動いていただきたい。その時、僧侶が先頭に立ったらどれほど力強いことだろうか。
まだ社会に支持されている仏教が、生きている人たちのために動いている姿は、未来を変えるかもしれないとさえ期待している。
それにしても自然災害が多すぎるので、「人間は罪深く生まれてきた」とするキリスト教思想の原罪意識の影響から、全て人間が悪いと考える人もいるのだが、仏教徒にその価値観は不要だ。
仏種が具わっている全ての生物の根本は「善」なのである。それでも、我々の行いにどこか間違いがあるのではないかという自省も大切だが、最近の異常気象は地球が宇宙規模の影響を受けたことによる気候変動の一環であり、人間如きが対処してどうなるというものでもないそうだ。そんな中で私たちにできるのは助け合うことだろう。同じ宇宙の細胞として生きる同胞に手を差し伸べようではないか。祈りは実践があって初めて叶うものだ。身口意三業の受持とは、お題目の唱え方を言うのではない。成仏は誰もが平和に生きられる世界が実現したときに得られるものだ。
「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してゆくことである。われらは世界の誠の幸福を索ねよう。求道既に道である」(宮沢賢治)
(論説委員・伊藤佳通)