オピニオン

2018年12月20日号

久しぶりにラッシュ時の満員電車に乗った。

久しぶりにラッシュ時の満員電車に乗った。学生時代は当たり前だと思っていたが、老境に近づきしかも大きなバッグを抱えていては厳しい。手に持つバッグが意思に反して段々離れていきそうになる。体が手すりのポールに押しつけられ肺の空気が押し出されぎゅうっと声が出る▼何とかバッグだけでも網棚に乗せたいと、電車が揺れた時の少しのすき間を狙って持ち上げた。狙い通り目の高さまでうまくいった。と、その時予想外の揺れでバッグが隣の男性の頭を直撃した。男性が首をひねってこちらをにらむ。とにかく申し訳ないと謝ったところ、にっこり笑って「大丈夫、お互い様ですよ」。その一言のうれしかったこと▼この満員電車に何人の人が乗っているのだろうか。ふとそんなことを思い浮かべたとき、法華経は大乗の中の大乗だということを思いだした。すべての人々を余すことなく仏の世界へ運んで下さる大きな大きな乗り物だという。今までは乗れば楽々と運んでもらえると思っていたが案外満員電車のように厳しい乗り物なのかもしれない▼乗れば必ず誰もが目的地に行くことはできる。ただしゆったり快適にとは限らない。時に言い争いもある。でも肩寄せ合い、グチをこぼさず譲り合い励まし合って、皆が目的地=仏の世界を目指す。それが菩薩の修行であり、そんな社会こそがそのまま仏の世界なのではないだろうか。(直)

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風の仕事

台風の後、境内は折れた杉の枝やらで無残な状態に。ため息をついて見回っていると「風は風の仕事をしているんだよねー」と4歳の孫。確かに自然は私たちの思い通りにはならない。ある時は恵みとなり、ある時は災害となる。1つの事象でも受ける側によっては良し悪しも分かれる。
良いお天気ですね、良いお湿りですねとなごやかに挨拶できたのは、過去のこと。気候和順にして万民業を楽しみというように神仏に守られながら自然に合わせて生活するのがうまい民族だった気がする私たちもまた、感謝と畏敬の念を持って神仏をお護りさせていただいてきた歴史がある。しかし今、文明の進化と経済至上主義の流れの中、人びとの心には信仰の芽を育む余地など見えない過酷な日常だ。
それでも私たち釈尊の教えに触れた者は、私たちのすべき仕事を進んでしなければならない。未来のために。

(福島県布教師会長・菅原海淳)

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数え歳に思う

東くめ作詞、滝廉太郎作曲の正月の歌。
もういくつ寝るとお正月 お正月には凧あげてこまをまわして 遊びましょう。 はやく来い来い お正月
明治26年(1893)、文部省から発表された唱歌(出雲大社宮司千家尊福作詞)。
年の始めの例とて終なき世の めでたさを松竹たてて 門ごとに祝う今日こそ 楽しけれ
このような正月を寿ぐ歌は近年唄われなくなってしまった。それに代わりクリスマスソングは大盛況。そういえば、コマ回し、凧揚げ、羽子板遊びという正月の風物詩は何処かへ行ってしまったようだ。
室町期の禅僧一休宗純(1394~1481)は、正月を次のように詠んでいる。
門松や(正月や) 冥土の旅の一里塚めでたくもあり めでたくもなし
ところが、この歌の意味内容が現代人にはさっぱり判らなくなっているようだ。
冥土は「天国」に、一里塚(人が約1時間に歩く距離は1里、昔、東海道などの街道に設けられた)は約3・9㌔。冥土も一里塚もわからない世となってしまった。それでは、「めでたくもありめでたくもなし」とは、一体どういう意味なのか。それは「数え歳」のことを知っていないと分からない。私たちはお正月を迎えると、「おめでとうございます」という。確かに新年を迎えることはめでたい、「1年間生かさせていただき新しい年を迎えて誠にめでたい」と。
大事なことは、1年の幸せを運んでいらっしゃった天の神さま「歳徳神(歳神さま)」をわが家にお迎えし、過ぎ去った歳の無事息災を感謝し、来る1年間の招福を願い、さらに歳神さまからひとつ歳を賜るという行事が正月なのである。年の始めに、元旦に歳をいただく、だからこそ「おめでたい」。「数え歳」には精神文化が内包されているといってもいい。
門松は歳神さまを家に迎え入れるための依り代という意味合いがあるという。また、「お年玉」は「お歳を賜る」→「お歳魂」が語源であるともいわれている。「お年玉」も魂に由来する言葉かも知れない。
一休禅師は、正月を迎えひとつ歳を重ねて「めでたい」が、ひとつ歳をとることは「冥土」に逝く日も近くなる、だから「めでたくもなし」といったのであろう。
私は檀信徒が亡くなると、白木の位牌に法号、命日、俗名と享年という文字の下に数え歳を記す。何故、数え歳を書くのか。東洋的な生命観には、生きとし生けるものに0(零)という数字はあり得ない。人は母の胎内に宿った時から「いのち」をいただく。「歳神さま」から生きる時を頂戴している。
従って、数え歳の上には「享年」という文字を書く。「享年」とは、「享けた歳」、誰から受けたのか? それは「歳神さま」から享けた歳に他ならない。数え歳と「享年」という語にも私は大いなる精神性を感じる。
最近、「享年〇〇」の下に「歳」という文字を記す葬儀社や仏具屋がある。それは望ましい使い方ではないとある漢学者が語っていた。私もそれを首肯する。「馬から落馬」と同じことで、「享けた年〇〇歳」となってしまうからだ。マスコミの方が確りと報じている。有名人が亡くなると、「享年〇〇」と表記している。
満年齢も良いが、数え年の復権を願う1人である。数え歳には日本古来の精神文化が含まれていると思うからである。(論説委員・浜島典彦)

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新年のご挨拶。

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