2018年5月20日
ハラスメントと非暴力
世の中は暴力で満ちている。
武器や道具を用いた物理的な暴力以外にも、権力による暴力、性差による暴力、言葉による暴力等々である。最近は、ハラスメント(いやがらせ)という言葉が耳目を集めるニュースが多いが、本質は精神的・身体的苦痛を与える暴行・傷害・脅迫・名誉毀損・侮辱・暴言・隔離・仲間外し・無視・個の侵害などのさまざまな種類の暴力的行為である。
暴力の中でも、いのちを脅かす暴力が最も恐れられるものであろう。
「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ」。 「荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう」。
これらは原始経典「ダンマパダ」に説かれる、釈尊の生の声に近い教えである。
これらの教えから派生する「生き物を殺すなかれ」(不殺生)が仏の教えの基本であることは誰でも知っている。しかし、実践することは難しい。なぜなら、我々人間の「生」が他の生き物の犠牲の上に成り立っていることは、少し考えただけですぐわかることである。我々の食料としてどれだけの生き物のいのちが犠牲になっているか等、例を挙げるまでもない。日蓮聖人も、末法時代の我々にとって、不殺生を含めた戒律を守ることは、あたかも市場で虎をさがすようなものであって、不可能である(『祈祷抄』等)としばしば言及している。
それでは、「殺すなかれ」を現代に実践する道は何か。「殺す」ことの反対を「殺すなかれ」ではなく「生かせ」と考えるのが現代的な不殺生である。すべてのいのちを本来あるべき姿に「生かす」ことが、「殺すなかれ」(不殺生)の実践であると考えるのである。それでは、どのようにしたらすべてのいのちを本来あるべき姿に「生かす」ことができるのか。その唯一の方法は、お題目の種を植えることである。たとえ我々人間の食料として提供されたいのちであっても、そのいのちにお題目の種を植えることによって生かされて成仏する道につながるのである。
このように、近年社会現象になっているハラスメントの基本にある仏教的観点は、「非暴力」「不殺生」を現代にいかに実践するかということであり、その本質を見失ってはならない。
ハラスメントを追求するあまり、追及する側が逆に相手に暴言を吐いてハラスメントの加害者になっている矛盾に気づかない理不尽も往々にして見受けられる。このような社会では、ハラスメントの根絶は期待できない。暴力の本質とは何か、真の非暴力とは何かを説く、み仏の教えを社会に訴え、「いのちに合掌」を実践していく役割を私たちは担っている。
ダンマパダは、次のようにも教える。
「生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない」と。
無自覚のうちにでも人の心を悩ました者は、臨終に際して断末摩の苦しみを覚悟しなければならない。そして、題目受持による懺悔によらなければその苦しみを免れ得ない。
不殺生、非暴力を思い、臨終正念と霊山往詣を願うなら、ハラスメントをしてはならない。
ハラスメントは、後生善処の妨げになることを肝に銘じたい。
(論説委員・柴田寛彦)