2018年4月10日
誕生偈「天上天下唯我独尊」
ピッカピカという言葉が一番似合うのは4月、この季節。
寺の前を通る新1年生の顔もランドセルも、ピッカピカ。
「お早う」と声を掛ければ、「お早うございます」と元気な声が返ってくる。
境内の木々や草花も、これに負けじと新芽を伸ばし、花を咲かせ、若葉を繁られている。
いのちの躍動という言葉を実感させられるのが、この季節。
4月8日は、お釈迦さまのお誕生日。私たち仏教徒にとっては、いのちというものについて考えるのに最もふさわしい日ではないだろうか。
この聖日を祝い、各地、各宗、各寺で花まつりのいろんな行事は営まれてはいるものの、クリスマスに関するイベントに較べれば、世間の人びとの関心度には雲泥の差を感じさせられる。
その原因に関しては、いろんなことが考えられるが、お釈迦さまの教えを広めなければならない立場にある私たちの努力不足にも、その一因はあるような気がしてならない。
今、我が日蓮宗は日蓮聖人の降誕八百年を目途として、〈いのちに合掌〉を合言葉に、宗門運動を展開している。
それならば、いのち輝くこの季節に誕生なさった教えの主であり、親でもあられるお釈迦さまを、もっともっとアピールすべきではないだろうか。
そこで、誕生偈と称される、「天上天下唯我独尊」という言葉について、皆さんと一緒に考えてみたいと思う。
この言葉の解説として、国語辞典の権威ともいえる広辞苑には、(釈尊が生まれた時、一手は天を指し、一手は地を指し、七歩進んで、四方を顧みて言ったという語)宇宙間に自分より尊いものはないという意と出ているが、果たして、この説明だけで、人は納得するだろうか。
それと言うのは、同じ広辞苑の「唯我独尊」の項には、①として、天上天下唯我独尊の略と説明しながらも、②には、世の中で自分一人だけがすぐれているとすること。ひとりよがりとの説明も出ているからである。
他人の傲慢な態度を批判するのに、この言葉が、②の意味として使われることが多々ある。
そんなケースに接する度に、お釈迦さまは、そんなつもりでこの言葉を口になさったのではないのにとの思いを強くする。
はっきり言わせてもらえば、日本人は、その程度にしか、お釈迦さまの言葉を理解していないのかと情けなくもなる。
仏教学者ひろさちやさんの著書、仏教の歴史Ⅰ『はじめに釈尊あり』(春秋社刊)には、この誕生偈を意訳して、
「あめがうえ、あめがした
われにまされる聖者なし」
との言葉が記されているが、これでは、広辞苑の解説と余り違いはないように感じられる。
それならば、誕生偈は、お釈迦さまご自身の言葉だと受け止めるよりも、お釈迦さまを渇仰恋慕する人びとによって語り継がれている言葉と考えてみては、どうだろうか。
これは、人びとが、「世の中に、お釈迦さまほど素晴らしい方は、2人といない」と讃嘆した言葉ですと説明すれば、現代人でも、ナルホドと納得してくれるかもしれない。
だけど、この誕生偈には、もっと深いお釈迦さまの思いが托されている気がしてならない。そう考えた時、私は、「天にも地にも、ただ1つ。我がいのちほど、尊きものはなし」との超訳を試みた。「あなたも私も、いのちは1つ、そこに気づいてほしいのですよ」との声が聞こえて来たような気がしたからである。 (論説委員・中村潤一)