2016年3月1日
慈悲(思いやり)の心を
前に私が週2回発信している「ケイタイ説法」で、「思いやり」について次のようにかたりかけました。
【思いやり】中国の孔子は、「人生でもっとも大切なものは」と問われて、「恕・じょ」(思いやり)と答えたという。日本の伝教大師・最澄は「忘己利他、慈悲の極」(己を忘れて他を利するは、慈悲のきわみ(極)である)、つまり「思いやり」であるとのべられた。日蓮聖人も「日蓮が慈悲広大ならば…」とやはり「思いやり」を大切に生きた。ブッダ釈尊も「仏、大慈悲を起して」多くの人々を導かれた。「思いやり」である。「思い」だけでなく「思いやり」である。
仏教では、いつの時代でも、どこにあっても、誰にとってももっとも大切なものは「慈悲(思いやり)の心とおこないと告げます。
(一)産経新聞第1面の題字脇には毎日、新川和江さんを選者とする「朝の詩」が掲載されています。筆者は愛読者の1人ですが、人の持つ美しい心持ち「思いやり」を上手に表現した作品に出会うと、ほっとした気持ちになります。
羽生市出身の詩人・宮澤章二さんは〝こころ〟は誰にも見えないけれど、〝こころづかい〟は見える。〝思い〟は見えないけれど〝思いやり〟は誰にでも見える」とつづりました。
(二)「枕御飯」
昔、白いゴハンは、年にお盆と正月だけしか食べられなかったという時代もありました。特に台風や豪雨などによって不作となり飢饉に襲われると、
「牛馬巷に倒れ、骸骨道に満てり」という日常となり、人々は食べ物にも困る状況となりました。その時、身近な人が亡くなると、せめて最後だけでも最高のご馳走をお腹いっぱい食べて欲しいという気持ちから、生前使っていたお茶碗に真っ白なたきたての御飯を盛り枕元に供えました。「思いやり」の心は、亡き人へもそそがれます。
(三)「御嶽山」
昨年9月27日、木曽の御嶽山(3067㍍)が噴火し、登山者56人が死亡しました。避難のさなか、会社員近江屋洋さん(26=当時)は寒がる小学校5年生の女児・長山照利さんに自分のジャンパーを渡しました。近江屋さんは山頂近くで、長山さんは歩いて15分ほどの場所で遺体となって見つかりました。非常事態で自分のことで精一杯のなかで人が見せた思いやりでした。後にこのぬくもりのジャンパーは長山さんの遺族から近江屋さんの遺族に返却されました。長山さんの父・幸嗣さんは「(近江屋さんが)生きていたら感謝の言葉を伝えたかった」と話したそうです。
先にいつの時代でも、どこにあっても、誰にとっても、もっとも大切なものは「慈悲(思いやり)」の心とのべました。今は亡き仏教の大学者、府中の多磨霊園にある中村元先生のお墓には釈尊の「無量の悲しみの心」(スッタニパータ)の一文が刻まれています。中村先生は「慈悲」について次のようにものべられました。
「仏教の精神とは、わかりやすくいえば、慈悲の心です。慈というのは、慈しみということであり、悲とは憐れみです。それぞれ、原義はサンスクリット語にありますが、日本語でいう〝思いやり〟というのが、その慈悲に一番近い言葉じゃないでしょうか」
(論説委員・星光喩)
