2015年10月20日
賢治の祈りと私たちの生き方
学生時代から、詩人で童話作家でもある宮沢賢治(1896─1933)に関心を寄せてきた私は、今日、あらためて彼の作品をとおして、これまで感じることのできなかったことに気づかせてもらっています。それは、『春と修羅』に収められている、最愛の妹トシとの死別を詩っている「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」の一連の作品です。また『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の作品群でもあります。それらの作品には、賢治のたしかな祈り、回向心、誓願が脈々といきずいているということです。
いままでは、彼の豊かな表現力、そして流れるような言葉の世界に、おそれと、おののきを感じ、少しも近づくことができませんでした。ようやく半世紀あまり賢治に関わり続けることにより、少しばかり扉が開かれたように思うのです。
ところで、賢治の創作活動の立脚点は、彼の死後に発見された『雨ニモマケズ手帳』(『新校本宮澤賢治全集第十三巻』563頁)に、「高知尾師ノ奨メニヨリ、法華文学ノ創作。名ヲアラワサズ、報キウケズ、貢高ノ心ヲ離レ」と記し、名誉欲や高名心、高慢心をいましめていることが知られるのです。
では、賢治の作品のどの点をいったい「法華文学」と呼称することができるのでしょうか。
私たちが身を置いている世俗世界では、つねに相対化して物ごとを捉えることになります。財を持てる人とそうでない人。学歴のある人とない人。豊かな食物を有している人とそうでない人等々です。
しかし、そのような眼で、彼の『注文の多い料理店』の「序」を読んでみますと、それとは真反対の世界、すなわち私たちの常識がまったく否定される立場が記されていることを知るのです。その冒頭には、つぎのような文が見られます。
「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。」(前掲書・第十二巻七ページ)
すなわち、私たちは十分な食べ物が得られなければ、人生は不幸であると思いがちですが、彼はそのようには見ていないのです。十分な食物(ここでは氷砂糖と表現されます)が、得られなくても、私たちが生命活動をしている中で、透明感に満ちた風を食べ、美しい朝の光を飲むことができるというのです。
また、身にまとう衣服にしても、美しいもの、華やかなものを私たちは求めるのかも知れませんが、賢治の目には、つぎのように映るのです。
「またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびらうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。」(同前掲ページ)
この表現は、差別や区別を超えた、平等のみ仏の眼によって映し出された世界と受けとれるのです。そして、この序の終りには、『注文の多い料理店』に収められている9篇の童話が、「あなたのすきとなほった、ほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません」と結ばれています。
この祈りは、賢治が臨終にあたって、法華経一千部の出版を託し、法華経に込められているみ仏のこころを汲みとってもらいたいという祈りと、軌を一にしています。
ここに私たちが法華経に生きる一つの手本が提示されているように思われるのです。
(論説委員・北川前肇)
