2015年6月20日
先師に学び私たちの目指すものを知る
すぐれた先人たちの生涯を学習するとき、若き日に熱烈なる誓願を立て、その誓いをもととして、全身全霊をかけての求道の日々が存在していることを知るのです。もちろん、わが日蓮聖人(1222―82)も、若き日に清澄山において「日本第一の智者」となることを智慧をつかさどる虚空蔵菩薩対して願を立てられ、厳しい修行の結果、智慧の宝珠を授けられるという宗教体験があったのです。その智慧をもととして、釈尊の説き明かされた一切経を閲読されることにより、釈尊のご本意が、一切経の中の「法華経」にあることを信解されることになります。
ところで、聖人が法華経を仏教の中心に置かれる立場から、日本仏教の祖として仰がれる聖者として、比叡山延暦寺を開かれた伝教大師最澄(767―822)があります。最澄は、比叡山を開かれた根本の祖であることから根本大師とも称され、聖人は自己のことを「根本大師門人」(『法華題目鈔』)と位置づけられ、また像法時代に誕生された「法華経の行者」と称されています。そして、『観心本尊抄』を述作されたのち、『顕仏未来記』において、インドの釈尊、中国の天台大師智顗(538―97)、日本の最澄を、正しく法華経を覚知し、その教えを流布した三国三師として仰がれ、聖人ご自身を加えて「三国四師相承」と表現されています。
では、若き日の最澄について、少しく足跡をたずねてみますと、彼は近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)に、後漢の孝獻帝の末裔、渡来者の三津首百枝の子として誕生しています。幼名を広野と称しました。今日の天台宗生源寺は、三津首の邸宅跡で、最澄の誕生の地とされています。7歳を迎えて、幼学のために家塾に学び、陰陽の学、医学、工芸などを修め、同学の人たちを超える才能を発揮しました。なかでも、父母の仏教に対する信仰を承けついで、仏道の学習がその中心をなしたのです。
12歳を迎えた広野は、宝亀9年(778)近江国の国分寺の大国師就任した行表(722―97)のもとに出家しました。そして4年後の宝亀11年(781)得度し、最澄と名乗ります。行表は、仏教の中でも、法相・律・禅・華厳などを学び、広野もまた、師に従ってそれらの教学を学習したのです。19歳延暦4年(785)年4月6日、奈良東大寺の戒壇院で、比丘としての具足戒を受けたのですが、7日には、出家者としての強い信念のもとに比叡山に入って草庵を構え、四恩報謝のために、法華経、金光明経などの大乗経典を読誦し、みずから天台教学を中心とする仏教を研鑽することになります。
このとき、最澄は徹底して自己を照射し、「愚か中の極愚、狂が中の極狂」である自己は、人として極めて下劣であるという自覚のもとに、釈尊の最上の教えを求めて、5つの誓願を立てています(願文)。その1つは、法華経を修行して、六根清浄の境地に到達しなければ、この山から出ることはしない。そして最後の5つめの誓願は、この仏道修行によって得られた功徳は、自己が受けるのではなく、広く人々にほどこし、すべての人々が最上の悟りを得られるように、というのです。
最澄の死後、4百年後に安房国(千葉県)に誕生された日蓮聖人も、人々が成仏への道を歩まれること、しかも、この日本国が安穏なることを求めて、仏弟子としての生涯を全うされていることを思うとき、私たちもひとりひとりが仏の子(菩薩)として誓いをもち、化他行に精進したいものです。
(論説委員・北川前肇)