2015年5月10日
嘘と方便について
「ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのます。ゆびきった」。日常保育の中で、こんなやりとりを教師と子どもたちの間でしているわが幼稚園。つい先日は、図鑑を開きながら子どもが「先生、本当にうそをついたらこんなとげとげのおさかなをのまなきゃいけないの?」と問いかけられた。開かれたページには「ハリセンボン ハリセンボン科の魚の総称」と書かれた写真。とてもほほえましい勘違いのなかで子どもたちの想像力は、大きく育っていく。
信頼できる大人とのやり取りの中で、「人として絶対にしてはいけないこと」を人間として、先輩として哲学とともに次の世代に伝えていくことも、私たちの使命であると思う。「うそをついてはいけない」ということも、その一つである。しかし、嘘が決して悪いものだけではない場合もある。そこに「人を悲しませたり、陥れたり、不幸にしたりするものでないこと」が絶対条件である。
まだまだ寒かった2月20日神奈川県川崎市多摩川河川敷で13歳の少年の遺体が発見された。この事件は、詳細が明らかにされるたびに悲惨で、残虐な事実が浮かび上がった。被害者の少年は、主犯格の18歳の青年と未成年の2人によって裸にされ、真冬の川で泳がされたあげく、カッターナイフで何か所も切り付けられ、首をナイフで刺されるなどして絶命した。私は、記事を読みながらその風景を想像するだけで悲しみに震えた。しかし、犯人たちは、犯行後遺体を隠し、証拠隠滅のために衣服を燃やしている。当時、遺体発見の速報は不明確なことが多かったが、タイムリーに報道されていたテレビで、後日逮捕される3人のうちの一人の少年が、嘘の証言をインタビュアに淡々と答えていたのを見た。さらに、主犯格の青年の父親も息子を庇う嘘の証言をし、事実が判明したのちバッシングを受けていた。彼らの心理はどう働いていたのであろうか。「人として絶対にしてはいけないこと」の中の嘘であることは明確である。
ことわざのなかに「嘘も方便」という言葉がある。この語源は、江戸時代から見られたようであるが、法華経に説かれる譬喩に由来するとされている。仏教辞典で方便という言葉は、「ウパーヤ」=接近するという意味の動詞から派生した語で、一般的には衆生を導くためのすぐれた教化方法、巧みな手段を意味すると記される。つまり、目的を成し遂げるためには時として嘘をつくことも必要となる。という肯定的なものとしてこのことわざが存在する。
釈尊が説かれる七つの譬喩が法華経の中に示されている。如来寿量品第十六、「良医狂子」の譬では、誤って毒を飲んでしまい、正常な心を失ってしまった子どもたちのために、名医であるその父親が、嘘(方便)をもって自分の死を伝えることによって子どもたちは正気を取戻し、薬を飲んで救われたというのである。釈尊はここで父であることを示し、正気を失った子どもたちを衆生に置き換えてその父が残してくれた薬は釈尊の教えであり、服した教えによって私たち衆生に救済を施している。
「嘘は方便」でなくてはならないと思う。私たちはもう一度釈尊の説く真理に導かれるための手段を考えてみよう。犯罪者やその家族のみならず、現代社会には、自分の利益に溺れる嘘が蔓延している。これからを担う子どもたちは「ゆびきりげんまん」をしながらそんな大人たちの心の内を透視しているのかもしれない。
(論説委員・早﨑淳晃)