2015年3月20日
琳派を楽しむ一年
本阿弥光悦が俵屋宗達らと共に洛北鷹峰に移住し芸術郷を創設してから、今年400年目を迎えました。当時の日本絵画は、大和絵と唐絵に大別され、大和絵は王朝絵巻、唐絵は中国から禅僧が伝えた水墨画が中心でした。土佐派、住吉派、狩野派などの画派がありましたが、室町中期から江戸末期に至る約400年間は狩野派が中心的存在でした。狩野派は将軍家や大名、武士など権力者と結びつき御用絵師としての権威を確立する一方、城郭や大寺院の障壁画の大作から扇面など小物に至るまで手がけた職業的画家集団でした。
桃山時代中期まで文化の担い手は公家や武家などの権力者達でした。末期になると世の中が平穏になり次第に庶民が文化を発信するようになりました。当時その中でもリーダー的存在が本阿弥光悦でした。光悦は書画、陶芸、漆芸など多方面に芸術性を発揮しアート・ディレクターとして文化的牽引をしました。殊に宗達との出会いは琳派発祥という日本美術界を大きく転換させる運命的出会いでした。
宗達が鷹峰の山野に咲き繁る草木と、草木に降り注ぐ雨を画きその上に光悦が和歌を書いた色紙『四季草花下絵新古今和歌色紙帖』は、仏の平等の慈悲を説く「三草二木喩」を表現したもので、まさに二人の法華信仰の芸術的コラボレーションです。光悦・宗達の二人が琳派発祥の源流となりました。
光悦・宗達を琳派の第1世代とするなら、第2世代は琳派を確立した尾形光琳・尾形乾山の兄弟です。光琳は宗達の意匠に憧れ、作風を踏襲しながら独自の芸術性を追求しました。金箔屏風に色鮮やかな群青と緑青を使い、型紙を用いリズミカルに燕子花を画いた国宝『燕子花図』は日本絵画を代表する作品です。同じモチーフをジグザグに連続させる表現法は宗達の『鶴図下絵和歌巻』と共通していて、まるでお題目が連続して流れているようです。当時流行した「光琳波」も同様の意匠です。第3世代は江戸琳派を大成した酒井抱一・鈴木基一です。抱一は、光琳の『風神雷神図屏風』の裏面に最高傑作となった『夏秋草図』を画きました。雷神の裏面に夏草、風神の裏面に秋草を対比させ光琳への私淑を表現しました。第4世代は明治大正期の神坂雪佳・浅井忠たちです。雪佳は光琳の『燕子花図』の作風を踏襲して木版画で『八橋』を発表しました。このデザインはエルメス社発行の「ル・モンド・エルメス」の表紙にも採用され話題を呼びました。第5世代は現代琳派の巨匠加山又造・田中一光です。グラフィックデザイナーの田中は斬新な感覚で光悦画の鹿絵や光琳胡蝶を鮮やかに現代に甦らせました。
20世紀初頭ヨーロッパに起こったアール・ヌーヴォー(新芸術)の背景には、琳派を始めとするジャポニズム(日本愛好の流行)がありました。「RIMPA」として世界をも魅了した琳派の特徴として①血縁や家元制度をもたない私淑の継承②100年ごとの時空を超えた美意識の継承③先人の意匠を踏襲しつつ大胆で繊細な新しいデザイン性等が上げられます。
琳派誕生の背景には、豊かな文化的土壌を醸成した京都法華町衆や旦那衆達の「嗜みの文化」があったからです。そして琳派を育てたのも町衆でした。琳派発祥400年。京都では今年一年間琳派に関する有意義な取り組みが催されます。法華町衆が生みだした琳派の美を理解する最高の機会です。
(論説委員・奥田正叡)