2014年10月10日
思いを形に
今夏、日本列島は多くの自然災害に見舞われた。特に、広島市の住宅地で多発した豪雨による土砂崩れでは、70人以上の方が犠牲となられただけでなく、今も自宅に戻れない方も多いと聞く。日蓮宗新聞によれば、本宗寺院も被災したという。犠牲となられた方々のご冥福をお祈りすると同時に、被災した本宗寺院をはじめ、すべての被災者の皆さまに心よりお見舞い申し上げたい。
ボランティアとして駆けつけることは体力的に難しいということで、心ばかりの義援金をお送りさせていただいた。
豪雨災害と言えば、当地、栃木県那須地方でも、平成10年8月に豪雨災害に遭った。中小河川が相次いで氾濫し、20人以上の方が犠牲となられた。市街地でも家屋の浸水が多発した。
そんなとき、当時健在だった父の大学時代の同級生からお見舞いのお電話をいただいた。
普段から特別親しくおつきあいをしていたというわけでもないのに、お心にかけていただいたことが嬉しく、また有り難く感じたことを今でも鮮明に思い出す。遠い那須の田舎で住職をしている同級生を思い出しただけなのかもしれないが、たった1本の電話で、その方の優しい思いを受け取ることができたのである。
大きな災害があれば、被災した方々への思いが生じるのは人として当然のことだ。しかし、同じような思いであっても、その思いを何らかの形に表すか、心にとどめておくかでは、天と地ほどの違いがある。
3年半前の東日本大震災は、多くの犠牲者、多くの被災者を生んだ。全国、いや全世界の人々が被災地に思いを寄せてくれたに違いない。そしてその思いは、お見舞いの言葉と共に、数多くのボランティアや多額の義援金、様々な形の支援活動となって表れた。それは枚挙に暇がないほど、多方面、多岐に及ぶ。すべて、人々の被災地への思いが形になったものだ。強い思いは必ず形になって表れるということだ。
先日、あるご婦人とお話をした。そのご婦人は結婚してちょうど30年になるので、ご主人に「この指に輝くものが欲しい」と言ってみたそうだ。するとご主人のいわく「僕のこの胸には君への愛が収まりきれないくらい、いっぱいに詰まっているんだよ」と、ごまかされてしまったという。そこで、「胸いっぱいの愛情があるならば、ご主人はそれを形に表さずにはいられないはずです。是非とも形にしてもらってください」と言ったところ、それはいいことを聞いたとばかり、「指に輝くもの」攻勢を掛けるという。
そこで、念を押しておいた。「もしご主人の愛情が指に輝くものになったら、それを受け取ったあなたは、胸からあふれ出た愛情に対して、同じように心からあふれ出る形をもって応えなければなりませんよ」と。
強い思いは必ずそれを形にするするための行動を引き起こし、それを受け取った人は、必ずその思いに応えようと、強い思いを抱いて行動する。
常不軽菩薩が、礼拝行を貫き、「私は深くあなたを敬います」と言い続けたのも、まさしく敬いの心を形にしたものであったと言えよう。つまり、思いを礼拝や言葉で形に表したのである。日蓮宗が敬いの心のこもった合掌を推進する根幹は、敬いの心のこもった合掌に接した人は必ず敬いの心を持って合掌を返してくれると信じることにある。それは、このことこそが、社会と人々に安穏をもたらす礎となるに違いないという、日蓮宗徒としての信念なのである。
(論説委員・中井本秀)
