2014年7月10日
国民の宗教感情
静岡県熱海市で、散骨場建設のための土地利用に関する許可申請を業者が出したことに対して住民が反発しているという報道があった。この原稿を書いている時点では墓地埋葬法(以下墓埋法)に抵触するとの判断で市が一度出した許可を取り消したようだ。
墓埋法は墓地や埋葬に関して、その管理と埋葬等が国民の宗教的感情に適合し且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から支障なく行われることを目的とした法律で、昭和23年5月に成立している。
墓埋法第2章第4条には埋葬または焼骨の埋蔵は墓地以外の区域にこれを行ってはならない。と定めているから、山野に遺骨を撒くという行為がそもそも違法ということになる。
墓地に限るということは、地目が墓地でなければならず、付近の住民の賛同がなければ地目の変更も難しいと聞いているからそもそも無理の多い計画ではあった。
今回の住民の反対は非日常的な散骨場が、居住する地域の近くに設置されることへの反発であり、至極当然のことと思える。たとえ身近な親族の墓でも居間や食堂の近くにあるものではない。他人の、しかも粉状にしたものを散骨するというのは受け入れがたいだろう。
しかし、宗教者としての立場から見ると、法律の解釈云々では済まされない大きな問題がそこに潜んでいる。
寺の門前にあるマンションの一室に住んでおられる老齢のご婦人が訪ねてこられた。ご主人が亡くなったのだが、供養して欲しいとのことであった。聞けばご主人は早くから無宗教で、葬儀もせず、もちろん戒名もないまま火葬のみ済ませたのこと。七月には清水港から出る船に乗り駿河湾内で粉状の遺骨を散骨するということであった。
ご主人は90歳でなくなられたのだが、以前は近くの公立小学校の校長までお勤めになった方で、お元気な時にはかくしゃくとした知的な方であった。
そのご主人が若いときから無宗教であったという理由が、墓があると子どもたちに負担をかけるからだというのには驚いた。
金銭的な理由が、心の拠り所ともなり得る宗教と、それによる供養までも否定してしまったというのだ。
若い人たちのように、ひとつのブームに乗ってというのではない。深くお考えになった末の決断だったのだろう。
熱海での散骨がどう推移してゆくか気になっていたところへ入ってきたこの情報は、私のみならず、僧侶全体に問いかけられた課題であると思える。
違法だから広まりはしないなどと構えている余裕はない。昭和23年に施行された法律に言う「国民の宗教的感情」が現代にそぐわないと判断されたとき、一定の条件下での散骨が合法化され、寺から墓地がなくなる時代が来るかもしれない。その時私たちは、供養しているのは遺骨ではなくそれを使って一生を生き抜いた故人の魂なのだとはっきり言えるだろうか。
霊の存在すら認めない僧侶が増えているなかで、魂の供養は私たちにしかできないのだと明言できるだろうか。
『おまえたちは修行完成者の遺骨の供養にかかずらうな。どうかおまえたちは正しい目的のために努力せよ』
釈尊がアーナンダに遺したとされるこのお言葉は何を意味しているのか。正しい目的とは何を指すのか、ゆっくり考えなければならないときが来ている。
国民の宗教的感情に大きな影響を及ぼすことのできる日蓮宗でありたい。
(論説委員・伊藤佳通)