2013年11月10日
個性を尊重し、互いに補い合う社会
先頃、全国の小学校六年生が参加する学力テストが実施され結果が公表された。このテストは教育関係者の間では国民体育大会の様相を呈していて都道府県単位で成績を争っているらしい。らしいというのは今回の結果、国語Aというカテゴリーで私の住む静岡県が最下位だったというので地元のマスコミが大騒ぎして知ったに過ぎないからだ。
最近では運動会の徒競走で順位をつけないという学校もあるというが、子どもたちを育てる気概に欠けているのではないかと感じている。どんな競争も一位がいれば最下位がいるのは当然だ。どうしたら一位になれるのか、なぜ最下位だったのかを学ぶ良い機会である。それが努力につながればこれに勝る教育はない。努力した人が良い成績をおさめるのは何の分野でも至極当然である。
その努力を促すための順位発表であろうに静岡県の対応は異例だった。下位何校かの校長名を公表するなどと知事が息巻いた。そこにはメンツだけがあって子どもたちの学校での成績が人生にどれほどの意味があるかについての論議はないようだ。
最下位という結果は努力のチャンスだというくらいの度量がなかったのか。
学校での成績は良いに越したことはない。知識が多くなり、それを使う能力も磨かれるから社会の一員として生きることの価値観を身につける事ができるようになる。
更には、努力することで、その結果から自分の得手不得手を知ることもできる。どんなにがんばっても良い結果が得られない運動や教科もある。脳の機能や運動能力には個性がある。誰もが同じ条件を持っているわけではない。
それをお互いに補い合うのが社会だと気づくこともできる。
六〇兆といわれる、人間を形成する細胞のひとつひとつが、全て同じ能力を持ち、同じ仕事をしているわけではないように、人間もまた社会の細胞の一つとしてそれぞれが様々な部分を担当していると気づく。脳細胞は大切だが、堅いだけが自慢の足裏の細胞がなければ学校に通うことはできない。
小学生たちは自らの能力を最大限に高める努力をしているが、だれもが脳細胞になれるわけでも、なる必要もない。
テストの成績が最下位だからといってメンツを失うというのであれば、足裏の細胞は恥ずかしい存在なのか。全てを支える足の裏になるという人生も悪くないと教える教育があってもいい。
孫が通う私学の小学校は県内で最高の成績だったという。これには教員も児童も喜んだ。地元のテレビ局の取材などもあって、もてはやされもした。ところが、それに気をよくしたのか能力別クラス編成を始めそうな気配があると聞いた。それはどうだろうか。まだ絶対的な能力が確定していない小学生を、成績で区別するというのは道が外れていないだろうか。義務教育はだれにも平等な勉学の機会を与えなければ意味がない。その土俵の上でどんな鍛錬をし、どんな価値観を身につけるかは彼ら次第だ。
有名になりたいと自己主張をする一部の若者たちが最近急増している。彼らには、ステージの上でスポットライトを浴びている有名な人たちだけが大切なのではないことを教えるべきだった。華やかな照明に使われている電気が、発電所から会場に届くまでにどれほどの人たちの手を経ているのか。危険な環境で働く見知らぬ人たちこそが、世の中の主役なのだと。
(論説委員・伊藤佳通)