2013年6月20日
利便性に富む現代社会だが…
私のささやかな人生の歩みの中で、今日の生活環境の状況は、実に驚くべきものであることを感じています。たとえば、日本国内を移動する場合においては、過去には交通機関を利用することによって、24時間を要して、ようやく目的地にたどりつくことのできる遠くの地であったのに対して、航空機を利用することで、数時間ののち、その地に立つことができるのです。それほどまでに容易に空間移動ができるのですから、先人たちの労苦を思ったり、その生き方に思いをいたすことができても、はたしてどれほどの共感をもつことができるだろうか、と反省させられるのです。
このように、空間移動を容易にしている現代社会は、さらに先人たちの積み重ねられてきた知慧の集積、すなわち知的な情報が、一瞬にして手もとに得られるという環境をもたらしています。しかも、その知的恩恵を受けていることに慣れてしまい、先人たちの労力や努力の結晶に対して、思いをめぐらすことさえできなくなっているのではないかと思うのです。
私が大学へ入学し、仏教を学ぶことの第一歩は、先人たちによって文献化された膨大な資料の1ページ、1ページに目を通し、必要な用語をカード化し、整理するという基礎作業からはじまりました。
しかし、今日では、それらの膨大な文献が電子媒体にデータ化されることによって、手もとのパソコンを利用して、一瞬にして検索を可能にし、必要な情報がもたらされる時代を迎えています。
このように、ささやかな個的な歩みのなかで、大きな技術革新の成果を享受できる時代を迎えるなかで、はたして自己の存在を確認しながら生きているのだろうか、と考えさせるのです。
しかし、このように、利便性に富んだ時代であっても、雑誌やテレビ等に注目してみますと、平均化された生活環境や、一般化された職業意識とは異なった生き方に挑戦しようとする人が紹介されています。それは、自己自身をけっして時代の流れの中に埋没させることなく、自己が自己であることの証明を、自己の職業や使命感のもとに達成しようとする生き方がみられるのです。その意味において、私たちが投げ出されている現代社会というのは、人間のいとなみである以上、一見すれば、便利な世であるようでありながら、多くの課題を内包し、それらの課題に挑戦する人たちが存在しているということを知るのです。
日蓮聖人(1222-82)は、鎌倉時代の人ですが、その時代の受けとめ方は、釈尊の正法が喪失し、闘諍(争いごと)が盛んに興起するという退嬰化した歴史観に立脚されていました。すなわち、私たちの生きる寄辺が存在せず、暗闇の時代が、いまの「末法」の時代であると捉えられていました。しかし、仏弟子として、真摯に仏道を邁進されることによって、そのような「末法」の時代にこそ、大恩教主釈尊は、本化地涌の菩薩に「大白法」の「南無妙法蓮華経」を大良薬として授与されたことを確信されたのです。
私たちは、利便性のある社会を目指して今日を迎えています。しかし、平成23年3月11日の大地震、大津波のもたらした大被害、あるいは原子力発電所の事故にともなう被災の問題は、けっして解決しているとは思えないのです。あらためて、私たちの娑婆世界として安穏に過ごすために、これらの課題を捉えつつ、いまを生きなければならないと思うのです。
(論説委員・北川前肇)