2013年6月1日
iPS技術の人間への応用
昨年山中伸也京都大学教授がノーベル医学生理学賞を受賞して以来、iPS細胞技術の人間への応用に関する研究成果が毎日のように報道されている。大別すると、医薬品開発等の医学研究領域での応用、再生医療への応用、生殖医療への応用等であり、画期的な恩恵がもたらされることが期待されている。
iPS細胞技術は、ES細胞技術とは異なり、現在までのところ大きな倫理問題は提起されていない。
しかし、仏教の立場から以下の点について検討しなければならないと考える。
一つは、iPS細胞技術によって作り出された細胞あるいは臓器について、心あるいは魂の次元でどのように理解すべきかという点である。iPS細胞技術で作り出される細胞や臓器には、心あるいは魂があるのか。あるとすれば、どのような心あるいは魂なのか。その細胞ないし臓器の移植を受けた人に、心あるいは魂の次元で生じるであろう事態についても、思いを致さなければならない。
「観門の難信難解とは、百界千如・一念三千にして非情の上の色心の二法たる十如是これなり」(『観心本尊抄』)とあるように、山川草木などの非情にさえも心が存在するのであり、心が存在するがゆえに仏になりうる存在である。もしそうだとすれば、私たちの体を構成している臓器や一個一個の細胞、あるいは骨や歯や髪の毛にもそれぞれ心があり、仏になりうる存在であるということになる。
このように、有情、非情共に一念があり、その一念の中に仏界を含む三千の世界を有しているというのが一念三千の妙理である。アメーバのような単体生物は、一個の細胞で独立した活動を営んでいる。その一個一個のアメーバの細胞に、それぞれ「一念」が存在していると考えなければならない。この考えをiPS細胞に適用すると、iPS細胞一個一個に心があることになり、その集合として臓器が形作られると、その臓器にも心があることになる。
一方、木像や絵像に開眼し入魂することによって魂が宿るという現象もある。
iPS細胞技術の応用に際して、このような2つの観点から、心あるいは魂の次元の問題を考えなければならない。
もう一つの課題は、問題克服のための努力と、欲望抑制とのバランスの問題である。仏教徒にとって欲望をいかにコントロールするかということは重要な課題である。真の幸福は、欲望を満たすことによってもたらされるのではなく、欲望をコントロールすることによってもたらされる。数ある欲望の中で何を許し何を許さないかの線引きをどこですべきなのか。
法華経は、欲望を捨てよ、ではなく、欲望をいかに制御して生きるべきか、殺すなではなく、いかに生き、そして生かすべきかを教える。すべての存在をいかにして本来あるべき姿に導くかが最重要課題である。自ら仏になるべく自らの命を生かし、他のすべての存在に対しても、あるべき姿に導くことこそが不殺生戒を守ることになる。
老化や病気の苦しみを克服することを目指した医学医療の発展は、肉体的な苦しみの軽減という恩恵をもたらす一方で、健康長寿への限りない欲望という心の苦しみを掻き立てることにもなる。物質的欲望充足に傾く心をいかにコントロールすべきか、その指針を提示することが仏教に求められている。その時、仏の悟りを得るという最終目的に合致するか否かが、適否の判断基準になるのではないかと、私は考えたい。
(論説委員・柴田寛彦)