2013年2月1日
ハラスメントと断末摩
最近関西の高校の運動部で、監督の体罰を苦にしたキャプテンが自ら命を絶つという痛ましい事件が発生し、耳目を集めた。
指導的な立場にある者が、弱い立場にある者に対して教育の名のもとに体罰という暴力をふるう事例が少なからず存在することを多くの人は知っている。そのことによって心身に消えることのない傷を受ける者がいることも、多くの人が知っている。安らぎの場であるはずの家庭内で行われる、夫婦間あるいは親子間の暴力、神聖であるはずの教育現場で、教育や指導の名のもとに行われる暴力に、人知れず傷ついている人の数は、想像を絶するに違いない。私自身が、他者の心を傷つける言動や行動をしていないと言い切れるのか。ハラスメントをしている本人が、そのことを自覚していないことが多いこともまた、この問題の根深いところである。
ハラスメントとは「嫌がらせ、いじめ」を指す言葉であるが、他者に対する発言・行動が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせ、尊厳を傷つけ、不利益を与え、脅威を与えることを指す。セクシャル・ハラスメントとは、本人が意図する、しないにかかわらず、相手が不快に思い、自身の尊厳を傷つけられたと感じるような性的発言・行動を、アカデミック・ハラスメントとは、研究教育の場における権力を利用した嫌がらせを、パワー・ハラスメントとは、職務上の地位や人間関係の優位性を背景に、精神的・身体的苦痛を与える行為を指している。その他にも、ジェンダー・ハラスメント、ドクター・ハラスメント、モラル・ハラスメント、アルコール、スモーク・ハラスメントという言葉もある。
ハラスメントについて考えるときに、第一に念頭に浮かぶのが「非暴力(アヒンサ)」という言葉である。釈尊は「ダンマパダ」に「生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない」と教える。ここで言う暴力とは、物理的暴力だけでなく、言葉や態度によるものも含まれると考えるべきである。
日遠上人の著作と伝えられている『千代見草』に次のような一節がある。
「断末摩というのは印度の言葉である。日本では風刀と言うこともある。臨終の時、体中に刀のような風が出てきて骨々や肉の間を吹き貫き、引き切り離す時のような苦しみである。顕宗論に『本当のことであれ、間違ったことであれ、人を謗り罰を与え、人の心を悩ました人は、断末摩の苦しみが非常に強くなる』と説かれている。」
人を謗り罰を与え、人の心を悩ました人は、臨終に際して強い断末摩の苦しみを受けることになるというのである。題目受持によって断末摩の苦しみを免れることができるのであるが、多くの人は臨終近くなり、この苦しみに心を取り乱し、常日頃心がけているはずの題目も忘れてしまうものであるから、そばに寄り添う看病人は題目受持を勧めることが大切であることを教示する一節であるが、私が注目したいのは、「人を謗り罰を与え、人の心を悩ます」こととは、すなわち「ハラスメント」に他ならないのではないかということである。無自覚のうちにでも人の心を悩ました者は、臨終に際して断末摩の苦しみを覚悟しなければならない。そして、題目受持による懺悔によらなければその苦しみを免れえない。
非暴力を思い、臨終正念と霊山往詣を願うなら、ハラスメントをしてはならない。ハラスメントを見過ごしてはならない。
(論説委員・柴田寛彦)