2012年12月10日
たかが坊主。「役割」は「地位」ではない
先日、宗門の中で最も尊敬する僧侶の一人が亡くなりました。60歳という若さでした。その方が私に常々言っていたことがあります。「俺たちは、たかが坊主だろ。何を偉そうにする必要がある」。強烈な言葉です。しかし、この言葉は今も私が一般の方に接する時の教訓となっています。
この方は、かつて南無の会で喫茶店説法を行っていました。通常、説法は本堂で行います。招かれて他の場所でも行うこともあり、また、街頭布教は、路上で行われます。当時は本堂以外で定期的に法話・講話が行われることはありませんでした。師はこの寺の敷居を低くした説法の場を通じて、従来の型にはまらない布教を身につけていかれたのでしょう。その後、ハワイ日蓮宗別院、ニューヨーク大菩薩禅堂、日蓮宗布教研修所等で檀信徒・青年僧侶の指導に当たられました。また、池上本門寺では在日外国人のための仏教セミナーを企画するなど、布教活動では絶えず先進的な考えを以て行動されました。
師が活動の中で気をつけていたのが、従来の寺の常識に囚われないことでした。外国人に対するセミナーや布教研修所で、師から企画やカリキュラムの制作・運営を依頼された時、「今の日蓮宗の布教に必要だと思われることは何でもよいからやってくれ。宗門の常識は考えなくてよい。後の責任は俺がとる」と言われたのは今も鮮明に覚えています。その後行った研修では、当時としては画期的な企画を行いました。そのため、既成概念から離れることができない一部の宗門関係者から批判がかなりあったようですが、師が信念を貫いたおかげでセミナーや研修は一定の成果をあげることができました。その時、得ることができた布教研修についてのノウハウは、今では当たり前のこととして受けとめられています。
私は師のもとで様々な事業の企画・運営をしてきましたが、その師が私に絶えず言っていたのが「俺たちはたかが坊主だろ」でした。この言葉、宗門の僧侶の方々が聞けば、「何と品のない、礼儀を知らない言葉だ」と思うかもしれません。しかし、この言葉、私たち僧侶に大きな教訓を与えてくれるのです。
「僧俗一体」というスローガンがあります。僧侶と檀信徒が一体となった活動を目標として作られています。しかしまだ、寺・僧侶と檀信徒・未信徒の溝は十分に埋まっていないようです。寺の行事では、僧侶が中心で檀信徒は「お客様」扱いです。式典があると、来賓の僧侶は本堂の中、檀信徒は外です。式衆以外の僧侶と檀信徒が一緒の席に座ることが許されないのでしょうか。どうも私たち僧侶は無意識の中に一種の特権意識のようなものを持ち、檀信徒との間に垣根を作ってしまっているようです。
僧侶も信徒も修行者としては同じです。異なるのは、僧侶が特定の分野で知識や経験があるので、それを教え伝える役目を負っていることです。非常に重い役目です。そしてそれを周りから期待をされています。私自身その重圧につぶされそうになることもあります。俗に言う「位負け」です。また選挙の時はだれにでも頭を下げる政治家が、当選した途端に威張り散らすことを目にします。自分に与えられた「役割」を「地位」と勘違いし、自分は偉いと思いこんでいるのでしょうか。僧侶を「重い役目」と考え、「高い地位」と考えないこと、そしてそれが、檀信徒と同じ目線に立った導きにつながることを、師は私に教えようとしていたのではないでしょうか。
(論説委員・松井大英)
