論説
2019年12月20日号
太陽のごとく、蓮のごとく
建長5年(1253)4月28日、日蓮聖人は清澄山上でお題目を始唱され、この前後に自ら「日蓮」と名乗られたと伝えられる。法華経第21章如来神力品の「如日月光明」と第15章従地涌出品の「如蓮華在水」。「太陽のごとく明るく世を照らし 泥中に咲く白蓮華のごとく清い心をたもつ」僧侶へという願いを込めてのものである。
日蓮聖人は涅槃経に説示される「法に依りて 人に依らざれ」の文言から法華経より2文字を抽出された。この2文字が選ばれた前記の文章には共通点がある。それは、第15章に現われる大地から涌き出でた六万恒河沙の地涌の菩薩を形容する言葉である。
法華経には様々な菩薩方が登場する。しかし、大地から涌き出でる菩薩は他に類を見ない。他の経典にもそれを見出すことはできない。何故、大地から涌き出でるのか。それは、娑婆世界(この地球)と有縁(お釈迦さまと有縁)であり、何層もの地層を破り出でる基礎体力、末法という濁世にも怯まぬ体力を有した菩薩だからということができると私は解釈する。
地涌の最上首は上行菩薩などの四菩薩であり、それぞれの菩薩方にまた六万恒河沙というとてつもない数の眷属がいる。そして、単己無眷属といういわばボンクラ菩薩の存在もある。
この地涌の菩薩方こそ、末法の法華経流布を委託された方々でもある。しかし、これ等の菩薩方には具体的な行法が示されていない。それを日蓮聖人は見事に解答されている。
法華経は三世説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品。今の勧持品は過去の不軽品なり。今の勧持品は未来、不軽品たるべし。その時は日蓮はすなわち不軽菩薩たるべし。(『寺泊御書』文永8年(1271)10月22日)
法華経第13章勧持品に示された未来記の受難、つまり「三類の怨敵」と第20章常不軽菩薩品で示された常不軽菩薩の過去世の「但行礼拝」による受難である。
この未来の物語と過去の物語の2つの受難が末法の世に現われた地涌の菩薩の行法であると日蓮聖人は受容されたのである。
したがって、今、各教区・各管区の教師・檀信徒の研修会などで読まれている常不軽菩薩の「但行礼拝」の24文字は、地涌の菩薩の修行と受け取らなければならない。往々にして今常不軽菩薩ばかりがクローズアップされているが、一番中心に置かなければならないのは地涌の菩薩でなければならない。
更に、日蓮聖人は「但行礼拝」の24文字について次のように明かされている。
かの二十四字とこの五字と、その語ことなりといえども、その意これ同じ。かの像法の末とこの末法の初と全く同じ(『顕仏未来記』文永10年(1273)5月11日)
24字とお題目の意は同じであると。24文字はお題目に他ならないと断言された。即ち、常不軽菩薩は「所見の人」、見る人、見る人にただ礼拝を行うだけでなく、お題目を唱えられたと解釈されたのである。
極論すれば、「但行礼拝」の24文字をもっての下種結縁はなく、お題目によってのみ下種結縁は叶う、仏と成ることができるとされた。
「太陽のごとく、蓮のごとく」の思いを抱き、自ら地涌の菩薩の先駆けであるであることを日蓮聖人は32歳の時に宣せられた。地涌の菩薩の修行の一類型として「但行礼拝」を捉え、その位置づけも確りとしておく必要があるといえよう。
(論説委員・浜島典彦)
2019年12月10日号
お題目に自他彼此の心なし ―異体同心からノーサイドへ―
今年の大きな話題の1つとして、ラグビーの第9回ワールドカップ大会が挙げられるだろう。アジアでの初めての開催となったこの大会。正直な話、私はそれほどの興味も抱かなければ期待もしていなかった。
ラグビーは、野球やサッカーに較べれば、日本での人気は、それほど高くはない。その理由は、怪我する危険性の高い球技と思われているからではないだろうか。事実、その試合は球技と言うより、肉弾戦のように見える激しいもの。とてもスマートとは言えない気がする。ところが、観る度に興奮度がエスカレートするのがラグビーなのである。
この大会に参加した日本のチームは、ベスト8に入ることを目標に掲げ、見事にその目標を達成し、日本中を歓ばせた。これによって一挙にラグビー熱が全国に湧き起こっている。今や子どもたちでさえ、あの変てこな楕円のボールを手にして喜々として遊んでいるのだ。いやはや人気というのは楕円のボールのごとく、どこへ、どのようにして飛ぶかは分からないものだなと驚かされる。
いや、それ以上に驚かされたのは、日本チームを構成しているメンバーたちのこと。熱心なラグビーファンは別としても、一般の人なら、このメンバーを目にした時、これが本当に日本のチームなのだろうかと目を疑ったに違いない。国境や人種を超えて国際化が進んでいる現代とはいえ、これほど多種多様のメンバーを擁するスポーツ、競技は他にはないのではないかと思わされた。しかしながら、テレビで試合を観ているうちに、彼らこそはこれからの日本の歴史を創造するパワーの象徴ではないかと考えさせられるようになった。
そんな中でも、ニュージーランド出身のリーチ・マイケル選手の活躍は特筆に値する。主将という立場を任された彼は、「1人はみんなのために、みんなは1人のために」というラグビーの基本精神を本にチームを統率し、ワンチームという生き方を披露してくれた。これを宗祖の言葉に置き換えるならば、異体同心と表現していいのではないだろうか。
彼は、「お世話になった日本に、なんとしても恩返しがしたい」とみんなをまとめ、彼らは心を1つにして、試合開始に際しては、「君が代」を斉唱してくれたのである。そして試合が終われば、ノーサイドとの言葉どおり、敵、味方を越えて、お互いが抱き合い、健闘を称えあっていた。これは参加国すべてに共通するマナーのようだが、粗野どころか、紳士的な態度を身につけている選手たちには、畏敬の念さえ感じさせられた。洋の東西を問わず、ナショナリズムとグローバリズムがぶつかり合い、国際関係が緊迫しているこの時代、政治の世界にあっても、このようなフェアープレーの精神を持ってほしい。
ノーサイドとは反対の意味で仏教には、我他彼此見という言葉がある。自分と他人とを区別する見解という意味だが、自他不二というのは、その区別を超えた絶対平等の境地を指す。仏の悟りの世界と言っていいだろう。死力を尽くしてプレーした選手たちには、そんな心の世界が広がっていたのではなかろうか。
お題目の信仰は、怨親平等利益を本分とする。開経偈の、「もしは信、もしは謗、共に仏道を成ぜん」という言葉を噛み締めてほしい。
敵も味方もなく、誰もが一丸となってトライする。ラグビーに学んだ信仰の道ではあった。
(論説委員・中村潤一)
2019年12月1日号
普回向を唱える意義
先日テレビで、四国88ヵ所巡りのお遍路さんが、読経の後に回向を唱えているところを見た。40代と思われる2人の男性であった。
「願わくはこの功徳を以て普く一切に及ぼし 我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」
これは、『法華経』の『化城諭品』にある一文で、梵天王が大通智勝仏に向かって唱えた偈頌(詩)の一節だ。その意味するところは、読経などによってもたらされる功徳を、生きとし生けるものすべてに回向し、皆共に仏道が成就することを願うということで、普回向と呼ばれる。
もちろん私たちにとっても、この普回向は基本的で重要なものであって、法要、読経等の際に唱えることが多い。
この普回向と対になる言葉として別回向がある。法事などで特定の霊位、たとえば自分の父母などに個別に回向することである。ただし、別回向には、可能な限り普回向を付加することが望ましいとされている。
ところで、仏教は本来、出家主義の個人宗教である。つまり、出家した釈尊が菩提樹下で個人的な悟りに到ったことが出発点であるから、元々は個人的な宗教経験の枠を越えるものではない。しかし、初転法輪以降、教えが説かれるようになると、次第に出家者集団が形成され、教団が成立する。すると今度は、その維持のためにも在家者との関わりが必須となる。出家者集団の宿命と言えるのかもしれない。在家者との関わりが重視される傾向が生まれると、次には徹底した自己犠牲の上に成り立つ菩薩思想が、慈悲を基として現れてくるのである。
ここに仏教は、実践的には仏教本来の姿である自利と、宗教的社会性を持った利他の両面を持つことになった。
こうして、後世において大乗仏教の特質の1つとされる利他行中心の教えが発達することになる。すなわち、自利行が進んでいって利他行に入るというように段階を踏むのではなく、徹底した利他行こそが自利をもたらすという考え方である。それを端的に表しているのが、伝教大師の言葉とされる「忘己利他」(己れを忘れて他を利する)である。自己犠牲も厭わない徹底した利他行は、菩薩行そのものであるから、それは自利行としても成り立つのだ。利他行は、「慈悲の極み」として位置づけられることになる。
これに加えて法華経は、受持・読・誦・解説・書写の五種法師行を掲げ、法華経受持などが大きな功徳をもたらすという考え方を明快に示した。それこそが「如説修行 功徳甚多」(説の如くに修行せん、功徳甚だ多し)の意味するところだ。そして私たちにとっては、唱題も、読経に勝るとも劣らない大きな功徳を生み出す行なのである。
ただし、この時点では、五種法師行や唱題のもたらす功徳は、たとえそれがどれほど大きなものであっても、それらの行を実践した人自身に備わるものであって、他者に及ぶ類いのものではない。つまり、利他行とはならないということだ。
そこで重要な意味を持つことになるのが回向である。回向とは、大いなる功徳を回らして他者へ振り向けることを意味するのであるから、回向によって初めて、読経や唱題が利他行として意義づけられることになる。
こうして、読経や唱題による功徳を普く一切に及ぼす普回向は、大乗仏教の根幹とも言うべき利他行に繋がる重要な一文となったのである。
大いなる功徳が普く一切に及ぶよう念じて読経や唱題に励み、併せて普回向を唱える意義を再認識してほしいと思う。
(論説委員・中井本秀)