2019年4月1日
原子力を利用する資格
東日本大震災から8年の歳月が流れた。死者・行方不明者・震災関連死者が2万人を超え、中でも未だに生死を確認できていない行方不明の人が2千5百人以上にのぼるという。
そして避難所生活を続けざるを得ない人、福島第一原子力発電所の事故によって避難生活を続けている人も、併せて5万2千人に及ぶと聞く。
筆者の地元の市役所庁舎は、震度6強の揺れによって、あの日以来使用不能となったが、様々な紆余曲折を経て、本年1月ようやく新庁舎が完成した。
筆者が住職をしている寺院の客殿玄関の銅板屋根は、上から落ちてきた瓦によって穴だらけとなり、応急処置として貼られたテープが今も残る。
大震災から8年を経て、心に傷を抱えながらも、徐々にではあるが、人びとは戻せるところは戻そうと努力を続けている。そのたゆまぬ努力によって、いずれはしっかりと足をつけた生活が戻ると信じたい。
ただ、どうしても戻せないものが2つある。その1つは失われた「いのち」だ。これだけはどんなに祈っても、どんなに大金を積んでも決して戻ることはない。我々は心からの追善供養を捧げることで、思いを届けるのみである。
戻せないものの2つ目は、原発事故だ。もっとも、「いのち」の場合とは、全く次元が異なる。「いのち」が死に至る現実は、最近よく聞く表現を使えば、絶対的に「不可逆的」である。「いのち」を「死」から取り戻すことは絶対にできない。
それに対して原発事故の場合は、現代の未熟な科学技術のゆえに、人為的に「不可逆的」と言わざるを得ない事態を招いたものだ。
福島第1原発の事故の際、3月15日に原子炉建屋が水素爆発で吹き飛んだとき、その第一報を車のラジオで聞いた。その時に原子力の専門家が「もう終わりだ」と叫んだことが耳に残って離れない。
おそらくこの専門家は、爆発の第一報を原子炉建屋の爆発ではなく、原子炉本体の爆発と勘違いしたのであろうと思われる。後で聞いたところによると、原子炉本体が爆発したのであれば、原子炉の規模から考えて、避難地域は東京にまで拡大したかもしれないということだった。
現代の科学技術は、原子力を完全にコントロールすることに成功していない。暴れ馬をなだめているだけだから、一度暴れ始まると手に負えなくなる。しかも、放射性物質を広範囲にまき散らし、人を全く寄せ付けずに暴走をエスカレートさせていくのである。
事故を起こした原子炉を廃炉にする作業に入っているようだが、8年経ってもメルトダウンした核燃料デブリでさえ十分に確認できていない。収束の見通しすら立っていないのだ。
もし科学技術の力で放射性物質を無害化することができたり、完全に放射線を遮断できる防護服が開発されるなど、本当の意味で有効な対策が可能になれば事態は一変するはずだ。しかし現在は、なすすべもなく逃げるだけだ。コントロールするなどというのは夢物語にすぎない。半減期を越えて自然に放射線を放出しなくなるのを待つしかないというのだから。
そういった意味で、現在の人類には、原子力をエネルギーとして利用する資格などないのではないか。もし将来、原子力の十分なコントロールが可能になり、いかなる事態にも安全確実に対応できるようになったならば、その時初めて、人類は原子力を利用する資格を手にすると考えるべきではなかろうか。
(論説委員・中井本秀)