2015年8月1日
原爆ドームと震災遺構の語るもの
今年は戦後70年という大きな歴史の節目を迎えるが、また私たち日本人にとっては「被爆70年」という年でもある。
昭和20年8月6日、広島市上空で炸裂した人類史上初となる核爆弾は、多くの一般市民を巻き込んで一瞬のうちにあらゆる物を破壊し、市内は焦土と化したのである。
当時、師父が住職をしていた寺は爆心地から1・7㌔ほどにあり、瞬時に消滅したことは言うまでもない。被爆の瞬間、崩れ落ちる本堂にいた師父であったが、頭上に開いた穴のため奇跡的に無傷で倒壊した本堂から出ることができた。しかし門前にいた母と当時6歳の姉は爆風に飛ばされ、母は建物の下敷きとなり、迫りくる猛火によって背中と腕に大火傷を負うが九死に一生を得た。しかし姉は翌日息を引き取ったのである。
その後、終戦を迎え時が流れていく中で議論されてきたのが原爆ドームの保存問題であった。
今日、原爆ドームは「負の世界遺産」として、原爆の惨禍と核兵器廃絶を世界に訴える大きな使命を果たしている。しかしながら市議会で保存が決定されるまで、原爆投下から20年の歳月を必要としたのである。
原爆を体験した人たちにとって、その象徴として存在する原爆ドームを目の当たりにする辛さは筆舌に尽くしがたいものがある。自らも被爆し家族が傷つき、6歳の娘が犠牲となった師父は、この保存について当時は否定的であった。多くの被爆者がそうであるように、ドームを見るとその当時が思い出されるのである。当事者にとって、その姿が、変わることなく存在し続けるという苦痛は計り知れないものであろう。
今年で東日本大震災から4年を経過したが、現在「震災遺構」の保存について議論が始まっている。この震災遺構には、すでに解体されたビルや船舶などもあるが、学校や庁舎など今後の保存が未定なものもある。
この震災遺構保存問題と原爆ドーム保存問題を並列に比べて考えていくことは必ずしも適切ではないかもしれない。しかしながら、多くの人びとが犠牲となった事実と遺族の心情を思えば、原爆ドームと同様に時間をかけて考えていかねばならないデリケートな問題であろう。果してその時間が10年なのか、あの「ヒロシマ」のように20年なのか、あるいはそれ以上の時間を必要とするのか、現時点で結論を出すことは難しい。
そんな中、南三陸町防災庁舎について宮城県知事は現状の「保存」と「解体」の議論にすぐに終止符を打つのは無理と考え、県が20年所有しその後町に返し結論を出すという提案をして、南三陸の町長はこれを受け入れたという。このような提案、決定も当事者としての苦渋の決断であったと想像するところである。
一被爆者として原爆ドームの保存に否定的な師父ではあったが、けっして保存問題だけに固執するわけではなかった。毎年8月6日の原爆忌には必ず慰霊碑に参拝し、機会あるごとに被爆体験を踏まえたその悲惨さを多くの人びとに語り伝え、命の尊さを訴え、日々お題目を唱え続けていたのである。
原爆ドームも南三陸町防災庁舎も「保存」することだけに意味があるのではない。遺構として存続されるのであれば、一人ひとりの胸に祈りのこころが刻み込まれてこそ、その存在意義があるといえよう。
原爆ドームは70年を経て今もなお世界に向けて平和への祈りを発信し続けている。その祈りを私たちはしっかりと見つめなければならない。
(論説委員・渡部公容)