2013年8月1日
お盆と子どものこころ
今年もお盆の時節となった。東京都心部などでは7月にお盆の行事が営まれるが、全国的には8月のお盆が一般的であろう。
実際「お盆休み」で会社や商店が一斉に休みとなり、故郷への大移動が見られるのは8月のお盆の頃である。多くの仏教行事の中で、これほど生活に密着し、市民権を得て全国的に定着したものは少ないだろう。
この盆休みには故郷のご先祖の墓参りをし、家では精霊棚を飾り、迎え火を焚いてご先祖を迎える習慣もしっかり受け継がれている家庭も多い。久しぶりに顔 を見る孫たちとともに、家族でキュウリやナスで馬や牛を作りながらお盆の話を語るのも年長者の役割でもあろう。もちろんそこでは、ご先祖さまが帰ってくる という話も自然に出てくることだろう。
帰ってきた、おじいちゃん
それは、ある棚経での出来事であった。その家ではご主人が亡くなって初めて迎えるお盆である。奥さん、子どもたち、そして孫たちが集まって、お経の始ま る前のお茶を飲みながらのひと時、初めて迎えるお盆の飾り方やお供えのことなど、それぞれに自分の考えや経験を言い合って、てんやわんやの大騒ぎである。 その挙句「お上人さん、これはどうしましょう?」ということで、一件落着である。
棚経ではしばしば体験することだが、どこかほほえましく、ほっとさせられる光景でもある。もちろん、そこでは亡きご主人の思い出話に花が咲く。そしてお となたちは、話の輪の中にいる2歳過ぎの孫に、お盆には大好きだったおじいちゃんが帰ってくるという話をしていた。このしっかり者の女の子は、ことばも達 者で、その姿はおとなと対等である。そしてこれからお経が始まろうというその時を見計らったように、玄関のチャイムがピンポ~ンと鳴ったのである。すると 間髪を入れずその子は「あッ、おじいちゃんだ!」と言うやいなや玄関へ突っ走り、おじいちゃんをお迎えに…。すると玄関には、おじいちゃんならぬ宅配便の おにいさんが立っていたのである。この時のこの子の心中は察して余りあるところである。
この子にとってみれば亡き最愛のおじいちゃんは、もう会うことのできない存在ではなく、また帰ってくる人であり、今日のお盆こそ帰ってくる日なのであっ た。この「おじいちゃんだ!」というひと言で、その場は一瞬時間が止まったようであった。その場にいたおとなは全員このことばに引き込まれてしまったの だ。「えッ、まさか」と感じさせるほどの絶妙のタイミングでの、玄関のチャイムと2歳児のひと言であった。
素直なこころ
多くの子どもたち、あるいは私たちおとなもまた幼い頃の体験として、似たような思い出を持つ人もあるかもしれない。
私たちは、亡き人とこころのつながりを持ち日々を暮しているが、その原点は子どもの頃の純粋で素直なこころにあるのではないだろうか。
法華経の如来寿量品第十六には「質直にして意柔軟に、一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず…」とある。つまり私たちは、こころ素直に、一心に仏に会いたいと、自らいのちをも惜しまず願うならば、仏さまはその姿を現すのである。
私たちおとながしだいに忘れがちな純粋なこころ、素直なこころを小さな子どもは教えてくれている。
お盆休みには、ご先祖を迎え、そして供養することの意義と大切さを次の世代に伝えていくことは、私たちおとな一人ひとりの役目であろう。
(論説委員・渡部公容)