ひとくち説法
2024年3月1日号
見る、見ていただく
いつものように起床した後、本堂のお釈迦さまや日蓮聖人、諸尊にご飯とお茶をお供えし、お勤めをする。お釈迦さま、日蓮聖人のお顔を拝すると、毎日表情が違う。良好な時もあればその反対の表情をされることもある。私の心がそう感じさせているのか? またはお釈迦さま、日蓮聖人が思考し行動せよと私に伝えられているのか? と判断はできないが、その両者であるのだろう。良い心持ちで過ごしていると、日蓮聖人の尊顔も柔らかく見え、よろしくないときは厳しく、悲しい表情をされる。唱題中に拝見するとふと今日やるべきこと、妙案が頭に浮かぶこともある。心を映す鏡となり、教えをいただくお姿だと思っている。
皆さまも、お参りする寺院や自らまつるご尊像をよくよく見てはどうであろうか? お顔を拝すると、仏さま、日蓮聖人からも見ていただくことになり、自らの進む方向が明らかにできると考える。(神奈川1部布教師会長・望月昌光)

2024年2月20日号
親と子と
母が「ほんでもってさん」と呼んでいた檀家さんがあった。話し好きで、お参りのたびに母を見つけては、しゃべり倒す。終わりそうな話が「ほんでもって」と繋がれて、延々と続く。愛想の良い母も、大分苦労したらしい。
私が師父の後を継いだ時分には、すっかり耳が遠くなり、話しも控えめになっておられて、ほんでもってを体験したかった私には残念であった。
熱心な人で、新春の法要や春秋の彼岸、盂蘭盆会では、夫婦で参加して人一倍の音声で読経唱題し、太鼓を叩いておられた。難聴になってからもますます声が朗々となった。周りの音を聞かずにズンズンと進まれるので、合わせるのに難儀した。随分と鍛えてもらったように思う。
老夫婦を送り、息子の代になった。口数の少ない照れ笑いが似合う人だ。行事や回忌を重ねて、少しずつ打ち解けてきた。お互いの親のように、味わいのある関係になりたいものだと思う。(東京南部布教師会長・石川龍彦)

2024年2月1日号
「あれ」についてあれこれ
令和5年の流行語大賞は『アレ(ARE)』だった。阪神タイガースの岡田彰布監督は、「優勝」と言葉にすると選手が過剰に意識するため「アレ」と言ったという。
直に言わず「隠喩」や「見立て」、あるいは「気遣い」や「忖度」に重きを置き、奥ゆかしさを尊ぶのは日本の文化によくあることだろう。
しかし、チームメイト内ならいざ知らず、「あれ」に頼りすぎて必要な伝達が疎かになることはいささか問題である。求めるにせよ伝えるにせよ、しっかりと言語にしなくては伝わらない。
法華経には「椎鐘告四方」「周聞十方國」と説かれ、先師は「音吐遒亮に文句分明なるべし」と遺されている。「解ってくれるだろう」と安易に略すことなくきちんと伝えることを心掛けたいものだ。
もし、お釈迦さまが霊鷲山で「あれをこれすれば」と説かれていたなら……………剣呑、剣呑。
