ひとくち説法
2019年11月20日号
認めていく
あるお通夜でのこと。祭壇の中央に花で飾られた額に納まるお婆さんの遺影。そこでふと違和感を覚えた。まるで別人とまでは言わぬが、私が住職となって20数年来のお付き合いの中で、見たことがなかった輝くような笑顔の遺影だった。
喪主の長男が「お袋、良い顔してるでしょう? 息子の私も見たことない笑顔ですよ。これはホームでの習字の時間、先生に花丸をもらった時の写真なんです。家の都合で小学校もろくに行けなかったお袋が、生まれて初めてもらった花丸がよほど嬉しかったんでしょうね」。混沌とした戦中戦後の時代、生きるのに必死だったお婆さんが長い年月を経て初めて貰った花丸。それが、どれほど嬉しかったのか遺影が物語っていた。「認」は「言いたいことを忍ぶ」と書く。人は誰しも本当に言いたいことは胸に仕舞って生きている。その心の声に耳を傾ける姿勢。とことん認めていく精神。担行礼拝に繋がるのではないだろうか。
(岐阜県布教師会長・天田泰山)
2019年11月10日号
仏教は数え年
葬儀の後でお孫さんから質問を受けました。
「亡くなったお婆ちゃんの年齢が違っているのですが…」と。そこでお斎の席でこんな話をさせていただきました。
私たちの肉体は生きているか、お骨になるかのどちらかです。しかし、私たちの魂は4つの世界を経て仏さまの国へと向かいます。それを四有といいます。生有(お母さんのお腹の中にいる期間)、本有(肉体と共に暮らす期間)、死有(死が訪れる瞬間)、中有(四十九日の旅の期間)の4つです。
一般的に使われる満年齢は、肉体と共に暮らしている期間、すなわち出産から死が訪れるまでの本有の世界の年齢を指しています。仏教では魂として生きた4つの世界の期間、つまり、お腹の中で生命が育つ期間(およそ十月十日)と、死が訪れた後の四十九日を合わせた約1年を満年齢に加え、いわゆる「数え年」という年齢を今も大切にしています。
(長野県布教師会長・大橋一雄)
2019年11月1日号
水のごとく、お寺参り
私が住職をさせていただいているお寺の数少ない信徒さんに2人の信心深い女性がいる。1年のうち余程のことががない限り時間は違うが朝にお参りに来て小1時間お勤めして帰る。彼女らは先々代住職の信徒さんで住職が代わってもお参りに来る。普通、住職が代わるとどこかに行ってもおかしくないものである。私が特別に行と学を身に着けているわけではない。先々代と出会い法華経とお題目のありがたさを知り、毎月の唱題行・信行会・年中行事には欠かさず参詣する。特異なことは先々代の月供養を自分たちで始め、34年経っても続けていることである。その姿に住職として自然と合掌してしまう。まさしくこれは、日蓮聖人のご遺文『上野殿御返事』にある、水のごとく信ぜさせ給へるか…である。人生は順風満帆ではなくさまざまなことが起こるが、彼女らは川を流れる水のごとく、今日もお寺に足を運んでいる。
(静岡西部布教師会長・松田成幸)