オピニオン
2022年4月1日
善神 処を去る
「お墓の墓場」を見て驚いた。「墓閉いがあれば、墓の墓場も出現するわけだ。末世だ」。無残にも見える墓石の山を見て涙がこぼれ、そう思った。「箸取らば、親や祖先の恩を知れ、我が一力で喰うと思うな」。誰のお陰で今がある。情けない思いは「憤慨」に変わる。きっと善神もそう思われるに違いない。人間はいつしか自らの力を過信し、驕り、慢心し「畏怖」ということを忘れてしまったのだ。こうなっては私たちを守っていただいている善神も「もう守護りきれない」と匙を投げて処を去る。すると、待ってましたとばかりに悪鬼夜叉・羅刹餓鬼・修羅などが水を得た魚の如く遊行闊歩し、思いのままに人の悪心を操って残虐非道、前代未聞の悪行の数々を引き起こす。昨今、眼前の事象歴然。「篤敬三宝」「敬神崇祖」は子々孫々に伝えるべき心の支柱。今や人類の進むべき軌道が曲がり始めていることを認識し、速やかな修正を意識しなければならない。
(新潟県東部布教師会長・眞島文雄)
