オピニオン
2017年6月1日
私の言葉
年齢を重ねてふっと自身を振りかえる場面が増えてきた。
その中で改めて「なぜこのお経にひかれるようになったのか」と初心を思い返す。私が感激したのは「この経(お釈迦さまの言葉)を聞いて皆が歓喜の心を起す」ことだった。
最近は多くの人が自分で情報を発信できる世の中になった。手軽に情報を発信し、ある時は自己表現の場として、ある時は顕示欲を満たす場として本音が語られる。そして本音は人を写す鏡として共感を得て受け入れられている。
ただ時に本音は建前とともに思いやりの心を失い、自己中心的な暴言となって傷つけ合い、必要のない争いを生むことになっている。これは言葉の持つ本来の力を失わせるもので、とても悲しいことである。
仏さまの心を持つ我々の言葉は、仏さまにならい「歓喜の心」を与えるためにあるべきだろう。
(千葉県西部布教師会長・高鍋隆盛)