ひとくち説法
2015年12月20日号
困難に遭っても
漢方薬を服用すると、良くなる前に体内の毒素が排出され一時的に体調が悪くなることがあります。これを瞑眩(めんげん)といい好転する兆しとなりますが、同じ様に、法華経には信仰する上で過去世の宿業が顕れ難に遭うことが説かれます。
日蓮聖人は「我今度の御勘気は世間の失一分もなし。偏に先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし」(『佐渡御書』)と、法華経を信仰する上で法難として流罪を受けることは、今までの宿業を解消する機会であり、後生に悪しき道へ堕ちるのを防ぐものであると受け止められました。
我々もお題目という良薬を唱え服する上でさまざまな困難に遭っても、日蓮聖人の大難に比べれば小さな難で済んだと受け止め、好転する兆しとして乗り越えてゆくことが、聖人に近づく一歩となると思われます。
(新潟北部布教師会長・小瀬修達)
2015年12月10日号
喪中と年賀(忌明・徐服)
年末になり、喪中ハガキが届くことがあります。現今では人が死亡して、仏教徒は四十九日(七七日)、神道で五十日葬までを服喪期間とし、忌明け挨拶状・香典返しをするのが習わしといいます。
年賀欠礼のハガキには1年近く過ぎているのもある。私は父母・義父母の死亡後の正月挨拶で「故○○は○月○日霊山浄土へ往詣し 釈迦牟尼仏日蓮聖人(菩薩)に面奉し 倶に元朝の日の出を遥拝(合掌唱題)していると思いなし 私共も安堵しています。本年も……」と、書きました。
四十九日忌が終われば忌明けだから平生の生活に戻った方がいい。いたずらに家に籠り世間・社交・外出・音曲・娯楽を避けるなど不自然です。
喪中・忌中であっても、日頃と変わらず普段通り仏道修行に励み、故人の霊山往詣を祈り、年始の挨拶や年賀を下さるのを断ることもなく、挨拶を交わす方が嬉しくありがたいようです。私たちは仏教(日蓮宗)徒、皆倶にです。「皆共成仏道」。
(新潟県西部布教師会長・中嶋教高)
2015年12月1日号
「終活」ということ
近年「終活」ということが話題になっているようである。最近のマスコミの話で終活の一環として「お墓じまい」を考えている人があると聞いた。…何とも嘆かわしい。遺骨は、今は亡き大切な人の最後の「縁」ではないのか? 墓前に手を合わせれば懐かしく対話もできようと言うもの。金品・不動産だけが遺産で、お墓や位牌は「負の遺産」と子孫に伝えるのか?…心に北風が吹く。
「死」という字は「一タヒ」と書くように必ず一度迎えねばならない現実である。
その準備をする。誠に結構なことである。しかし、ここでいう終活とは、臨終を迎えるに当たっての生き方、逝き方。「後生の為の糧」を考えるという「終活」である。臨終を迎え、今生の精算をし、そして「罪」と「徳行」を持って旅立つのである。
懺悔滅罪の謙虚さと、徳を積ませて頂くという謙虚さ、これを終活の心柱として余生に光明を得、霊山浄土を期したいものである。
(新潟東部布教師会長・眞島文雄)