2024年1月1日
戦争、紛争へお釈迦さまの智慧を活かそう
インバウンドの波が身延山にも押し寄せている。多い時には、朝のお勤めに30人ほどの外国の人たちが参詣している。導師挨拶の時、登詣寺院名や国々の名を読み上げ、簡単な英語でおもてなしをしている。結構、ヨーロッパの人たちが多い。先日、驚いたことがあった。それはウクライナとロシアの人が同座していたのだった。私はウクライナ戦争、中東紛争が早く終結するように回向のなかで祈願している。
ウクライナとロシアの戦いの基の1つに正教同士の争いもあると聞く。殊にロシア正教会のキリル総主教がロシアの侵攻について文明的、宗教的意義付けをして正当化しようとしている。誠に気になるところだ。
一方、中東においてはイスラム教とユダヤ教のもめごとが歴史的に長きにわたって続いてきた。今回もガザ地区をめぐりハマスによる先制攻撃とイスラエル軍による猛烈な反撃により多くの生命が奪われている。本来、宗教とは人びとの幸せを実現させ、救済を目的とするものであろう。それが人を殺戮する後ろ盾になってしまっている。何と嘆かわしいことであろうか。
ましてや戦争では、例えば空軍パイロットが敵方の戦闘機を数多く撃墜すると、英雄となり勲章まで下賜されて人びとからもてはやされる。平和な時代に他人を殺めれば、殺人罪となって服役しなければならない。他人を殺める行為は変わらないのに戦争時と平和時との違いがこれほどまでにあって良いのであろうか。私にはいつも不可解に感じることである。
仏教では、五戒という五項目の大きな「いさめ」を説く。戒は元来内面的な自律的規範であるが、一番はじめにあるのが「不殺生戒」である。人間は食物を食んで生きていかなければならない。従って、間接であれ、直接であれ、「殺生」をしながら生きている。そこで犠牲になった生き物に対し、懴悔滅罪の意識を持って感謝しなければならない。その言葉が、「あなたのいのちを『いただきます』」である。
お釈迦さまは「アヒンサー」、非暴力・不殺生を高らかに掲げ、『法句経』において
「すべての者は暴力におびえる。全ての生きものにとって命はいとしい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」
と説かれている。「己が身にひきくらべて」とは、自分が殺される立場になってということである。
日蓮聖人は、『立正安国論』において十番問答中、八番の「謗法の禁断について」語る主人の答えのなかに、
釈迦の以前の仏教はその罪を斬るといえども、能仁の以後の経説はすなわちその施を止む。
とある。能仁とはお釈迦さまのことである。お釈迦さま以後の仏教では、謗法の者の「殺生」を禁じ、否定され布施を止めることを奨励された。
今、身延山久遠寺では、法華経の「開会」の思想に基づき「共に生き 共に栄える」という信仰運動「共栄運動」を推進している。大正大学学長を務めた仏教学者椎尾弁匡師は、「共に生きる」ことに哲学的な意味をもたせ、大正年間に[The Philosophy of Symbiosis]と訳して世界へ仏教の思想を発信した。
価値観の違う相手を尊重し、認めながら共に生き、その結果、共に栄えるという法華経、お釈迦さまの智慧に全世界は今こそ覚醒しなければならない。
(論説委員・浜島典彦)