論説

2023年4月20日号

不寛容への不寛容

 ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中で、次男イワンに、「悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽけな拳でたたき、血をしぼるような涙を恨みもなしにおとなしく流しながら、神様に守ってくださいと泣いて頼んでいるのに」と、戦乱の中で軍馬に蹴散らされて亡くなっていく子どもたちのことを考えると、神の世界が認められないと語らせている。命の重さに今昔老若男女の違いはない。いたいけない子どもの命が理不尽に虐げられる事例には胸がかきむしられる。
 そのようなことが今も世界各地で性懲りもなく繰り返されている。自分の主義主張を、弱い立場にある者たちに、不寛容に暴力的に押し付けようとすることに、私たちは毅然と対峙しなければならない。
 隣国が武力で侵略し自国の領土にしようとし、兵士のみならず多くの市民が命を奪われる事態が現実に生起している。それに対して、武力による侵略にはそれに負けない武力で対応するしかないとする主張があるが、それではより強力な武器の開発という果てしのない軍備拡張とそれに伴う恐怖の連鎖が必然である。一方で、武力を用いない平和的な交渉によって争いを解決すべきだとする主張があるが、国連のそのような努力も強大な軍事力を背景とした勢力の前で必ずしも十分に機能しているとはいえない。
 自らの主張を暴力的に押し付けようとする不寛容な人びとに対して、寛容を旨とする者のとるべき対応はいかにあるべきか、古くからの命題である。
 イギリスの哲学者カール・ポッパーは、不寛容な人びとに寛容な態度を貫いたら、つまり暴力的で不寛容な人びとを寛容的に認めたなら、寛容な人びとが滅びてしまうので、不寛容な人に対しては不寛容になる権利を主張すべきであるとした。いわゆる「寛容のパラドクス」である。
 釈尊の教えであるダンマパダに、「すべてのものは暴力におびえる。すべての生き物にとっていのちは愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」「生きとし生けるものは幸せを求めている。もしも暴力によって生き物を害するならば、その人は自分の幸せを求めていても死後に幸せが得られない」とあるごとく、非暴力、不殺生は仏の教えの基本である。しかし、自らの生命や同胞の生命が脅かされている極限の状況で、非暴力、不殺生を貫くことは、自らの、そして大切な人びとの生命を重大な危険にさらすことになりかねない。
 「すべての人が仏になる」という法華経の教えを語る常不軽菩薩を、暴力的にねじ伏せて排除しようとする不寛容な人びとに対して、暴力で対抗しようとするのではなく、遠くに逃げてなお「すべての人が仏になる」という法華経の正しさを説き続けた常不軽菩薩の行いこそが折伏の行いなのではないかと岡田文弘師は指摘している。
 暴力的で不寛容な人びとに対して1歩も譲らず、なおかつ非暴力、不殺生の立場を堅持して正しい教えを説き続けた常不軽菩薩の行いこそが、私たちが現代のさまざまな困難な課題に向き合うときの模範とすべき心構えといっていいのではなかろうか。
 しかし一方、正しいものを正しいこととして守るために、降りかかる火の粉は振り払わなければならず、そのために時として自らの命をも懸ける覚悟をしなければならない。小松原における東条景信の襲撃で刀傷を受けた日蓮聖人を、身命を賭してお守りし殉難した鏡忍房や工藤吉隆のように。
    (論説委員・柴田寛彦)

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2023年4月1日号

法華経は時空を超えて~いのちに合掌~

 本号が皆さんのお手もとに届くころには、日本列島の桜の開花宣言が東北辺りまで上っていることでしょう。まずは、

 上人を恋ひて
     詮なき桜かな

 明治・大正・昭和期にかけて、伝統的な俳句の形式である五七五調を重んじて「客観写生」と「花鳥諷詠」を提唱した俳人高浜虚子の1句です。背景を知らずとも、その想いは察することができます。出家の聖(上人)をいくら焦がれてもどうしようもないこと、(それは)美しい桜花が散らないようにと願っても、結局は散ってしまうことと似ていると、自然の理と人間の心の情景とを重ねているようです。
 虚子は今日、4月1日に倒れ、昭和34年(1959)4月8日、釈尊のご降誕日が命日となっています。この句の主は誰で、その想いは誰に向けられたのでしょう。

 鷲の山昔の春はとほけれど
   同じ色香の花ぞたへぬる

 この歌は江戸時代の宗門僧侶で『日本詩史』(岩波文庫)に「寛文中(1661~72)詩豪と称するもの石川丈山、僧元政にすぐるはなし」と評された深草元政上人が詠んだものです。この時代の歌人として著名な『奥の細道』の作者松尾芭蕉と並び称されてもいました。
 元政上人(1623~68)は、京都の深草に庵を結び「法華律」を提唱して、それまでの仏道の気風を刷新しようと厳格に実践した僧でした。和歌や漢詩の才はいうに及ばず、教学の深い理解に基づき、信仰者の実践を問い、また自らにも問いかける姿は、日蓮教学に根差した実践者の在り方に大きな一石を投じました。
 歌にもどりましょう。「鷲の山」とは法華経が説かれたと伝わるインドの霊鷲山のことで、釈尊のおられたその時代の春と今とは(時も地理も)遠く離れているけれども、春を感じさせる花や空気の匂いは絶えることなく今も同じように感じるのだなあ、と謳われています。
 この歌は、元政上人が春を詠ったものであることは疑いようがありませんが、しかし、もう1つの読み方があることに皆さんはお気づきでしょう。それは、法華経と自身との関係を示していることです。「釈尊が霊鷲山で法華経を説かれた春の一時を、今に重ねることはできないが、春という季節を伝える空気の放つ匂いや、草や花の息吹きは同じように続いている。そこには釈尊と今の私との間には遠い時間と距離の隔たりがあるが、おそらく釈尊が感じた春を含む空気の匂い、花の咲くころの景色の変化は、時が経た今でも絶えることなく感じられる」と解釈できます。
 もう少し、かみ砕いてみましょう。そこには、教えの継続があると読めます。時間や距離の隔たりを認めながら、いのちが繰り返される縁起により、往時の法華経の教えが時と場所を経て今に伝えられ、その教えは春の色や香りとなってそこここに漂っているのだ、と。そして、元政上人は、妙法蓮華経を直に感じ取って、自らの掌中に修めようと、法華経に基づく戒律の在り方を実践しました。詩歌に秀でた文人ではなく、釈尊の勅使である日蓮聖人の末弟の1人として、お題目に、妙法蓮華経に礼拝した生涯だったのです。
 私たちはどうでしょう。いのちが紡がれる尊さを敬っているでしょうか。その根幹であるお題目、妙法蓮華経に恭しく合掌して掌中の珠としているでしょうか。今、新たな春の息吹きとその中に自身が有ることに感謝して、いのちに合掌してお題目を唱えましょう。
    (論説委員・池上要靖)

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