論説

2022年10月10日号

何故 お会式か

引き続きコロナ禍で始まった令和4年。ようやく沈静化の兆しが現れだした昨今、読者諸氏には息災であったろうか。自らを律する日々の中で、この10月の「お会式」の集いが希望の光とならんことを祈るばかりである。
お会式は、法華経とお題目の弘通に生涯を賭された日蓮聖人のご命日である10月13日に、僧侶檀信徒が一体となって報恩謝徳(恩徳に感謝し報いること)を示すために行われる日蓮宗の年中行事である。50年ごとに繰り返される「遠忌」とは異なり、毎年執り行われる日蓮聖人忌日の法要を指すことが多いが、「お会式」は単に寺院で虔修(編集部注・つつしみおさめること)される法要ばかりではなく、その前後に行われる(とはいっても、今では専ら「前」のみではあるが)さまざまな式や催しも含んでいる。「僧侶檀信徒一体」による催しはこの中に入る。
とりわけ有名な催しが「万灯練供養」であろう。しかし、万灯練供養または万灯行列を、江戸時代の著名な浮世絵に見出すことはできない。一例をあげよう。2代歌川広重と3代歌川豊国(国貞)の合作「江戸自慢三十六興 池上本門寺会式」は、池上本門寺の門前町から「此経難持坂」に向かう信徒の姿を描き、その手にはうちわ太鼓が握られている。鉦や万灯、纏の姿はない。お会式逮夜の風情が描かれたこの浮世絵は、元治元年(1864)の発刊である。
他はどうだろう。明治期の錦絵師・小林清親の「武蔵百景 池上本門寺」には、万灯の原型らしき提灯竿灯が描かれている。明治17年(1884)刊なので、前掲の浮世絵から約20年後には、万灯が逮夜の空を彩るようになったのだろうか。纏が行列に加わったのは、谷中法養寺(現大田区池上)中の江戸火消しが「火伏せ」の願いを込めたからという伝承もある。
江戸のお会式は、現在、堀之内妙法寺や雑司ヶ谷法明寺のそれと合わせて、「東京三大お会式」と呼ばれている。聖人入滅時に咲いた枝垂桜を模した万灯は堀之内妙法寺から始まったとも言われている。

御命講や油のような酒五升

俳聖松尾芭蕉の句である。芭蕉はこの句を元禄5年(1692)に詠んだ(一説には元禄元年)が、「お会式」ではなく「御命講」を用いている。宗派の祖が亡くなられた忌日法要は「御影供」が一般的だが、「御命講」はこの「御影供」からの転化に依ると辞典は記す。「御命講」や「お会式」は日蓮聖人忌日を示す季語として定着していった。
「お会式」の言葉は日蓮宗だけではなく、浄土宗や聖徳宗などでも用いられているが、俳句の季語や庶民文化に表現される「御命講」、「お会式」は日蓮聖人忌日の代名詞となった。僧侶檀信徒一体の宗門行事が、生活文化に根付いた好例であろう。
日蓮宗の法要という点から見ると、江戸時代は「祖師会」が法要名称だったことが、往時の「梵唄」の曲名から判る。大正10年(1921)出版の『日蓮宗法要式』には「宗祖入滅会(御会式)」、三派合同後の昭和26年(1951)刊『宗定日蓮宗法要式』以降は、「御(お)会式」と表現され現在に至っている。
聖人忌日を示す「お会式」は、庶民文化の中で華やかさを増して、今日の法要名称にまで浸透した。コロナ禍といえども、その華やかさが褪せてはならないいが、私たちは、日蓮聖人の艱難辛苦の法華弘通を貫かれたご遺志を受持して、「立正安国」のためにお題目を唱える行いをなおさらに励もう。
(論説委員・池上要靖)

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2022年10月1日号

仏法の西へ帰るは瑞相なり

「物言えば唇寒し秋の風」。爽やかな秋風にコロナを忘れ、静かに物思いにふけようとしても、世情はそれを許しません。あらゆる分野で不祥事や疑惑が現れ、物言えば揚げ足を取られ、黙すれば不誠実だと詰られ、葬式云々、メディアの狂騒は大切な秋の静寂を壊していきます。この秋風の中、日本の将来を危ぶみながら、日蓮宗の未来にも思いを馳せてみましょう。
地方の過疎はコロナ禍によって加速し、お盆やお彼岸でご先祖に関心の高まる時期に離檀や墓じまいの相談が増加しました。
私の街の長崎県島原市は江戸時代の城下町として、昭和期までは地方の中核都市として大いに栄えていました。しかし、その歴史も今や風前の灯です。
島原半島の島原藩は九州の臍や胃袋と呼ばれ、西国大名の目付と天領長崎の差配を担う重要な役目と格式を負っていました。200年に及ぶ親藩格の松平家の治世は、江戸直結の政治、経済、文化で賑わい、7万石の小藩でありながら、自由闊達な空気の充満する九州西端の城下町だったのです。その証の1つに、各藩では気を使った不受不施への取り締まりを逃れて、明治以後名乗り出た信徒により、島原には九州唯一の不受不施派の寺院が創建されました。キリシタン弾圧の江戸初期、不受不施の日奥上人の対馬流罪も関係あるのかも知れません。島原の隣藩大村藩は切支丹大名として断罪は免れないところでしたが、法華信徒・加藤清正公の力添えもあり、全藩を挙げて法華宗に改宗することで幕末まで存続します。この歴史は教誌『正法(171号)』(秋彼岸・御会式号)の「ぶらり門前町」、大村市本経寺の稿で詳しく紹介されています。この大村法華の本経寺は慶長13年(1608)の開創です。開堂法要には43歳で身延山法主に抜擢され、江戸初期の法華宗の存続に多大な貢献を残した寂照院日乾上人が西下しています。当時の教団の意気込みと、その後の大村法華の発展を示唆しています。西の果て長崎はその頃から文化や経済など日本の玄関口になりました。このことも次号『正法』の同コラムをご参照下さい。
今月8日、十三夜の錦秋、島原城では「島原城薪能」が開催されます。当寺はその事務局を務めています。市民が江戸時代から続く格調高い薪能を復活させ、島原城の歴史を伝える大事な催事として継承しています。今年は「宝生流」の当番で、40回の記念として「宗家」が出演します。祝い能「乱」が上演されます。地方都市での宗家の出演は大きな力となり、縮小していく過疎の街での伝統文化の継続の追い風になります。私たち伝統教団の役割は地域社会の発展に寄与することでもあり、寺院は地域一体となって活動することを求められています。
日蓮聖人は晩年残された『諌暁八幡抄』の文末に「月は西より東に向へり。月氏(天竺)の仏法の東へ流るべき相なり。日は東より出ず。日本の仏法の月氏へ帰るべき瑞相なり。(中略)日は光明月に勝れり。五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり。(中略)我が弟子ら励ませ給え」と西へ向うことの大切さを述べておられます。長崎には先月やっと新幹線が開通し、西へ向かう日本の方向性が示されました。混迷する世情、力を増す隣国を目前にする西の端から国民は目を離せなくなります。だからこそ、西の果ての寺院の存在意義は多大です。日蓮聖人を心底敬愛し、その歴史と利益を大事に信仰に励む地方の檀信徒のために、お祖師さまも西下して瑞相を示して戴きたいものと切に願っています。
(論説委員・岩永泰賢)

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