論説

2022年7月20日号

理想の世界 法華経

理想とする地域や世界は、一体どのような社会なのか。人と人が結ばれ、家庭を築き、その家が集まって村となり町、市、県となり国家となる。それが地球の人間社会を創り上げている。
最小単位は、たった1人の〝人間〟であり、ふと自分の体を見てみると、右手と左手は、喧嘩していなかった。左小指が怪我をすれば、右手が必死になってかばっている。左足を切断して、右足をさすって喜んでいる人はいない。右手と左手が喧嘩しているような家庭や組織、そして社会はやがて崩壊していく。私たちの心は未成熟で、とても久遠の仏さまの実子とは言い難い。多くは欧米由来のデカルト二元論のような害虫駆除思想に陥っている。一方を〝消滅〟させれば、理想が生ずると信じ込んでいる。これは、農業や医療分野の思想でもまったく同じである。
農業では、虫が悪いと考え、殺虫剤で殺してしまう消滅構図が定着してしまっている。害虫さえ殺せば、立派な農作物が育つと信じられている。医療でも、癌を抗がん剤で殺してしまえば、健康な身体になれるという具合である。
一方、木村秋則氏が体系化した、見える生物や、見えない微生物さえも殺さない、余計な農薬や肥料も投入しない、自然栽培の農法は生物循環によって害虫被害が少ない。作物は、腐らず枯れていく。虫の役目(仏性)は、人に食べさせてはならない農作物を創り上げた時に発生し、食べてくれている。肥料を使った野菜は、放置すると腐敗し、ドロドロに溶けていく。
一見すると、合理的な害虫駆除思想は、常に〝戦場〟へと導くのである。西洋思想がすべて悪いとは言っていない。〝闘争〟〝駆除〟という思想を変え、仏教的な、因縁観による個と全体の和合による調和のある生き方に気づき、少し考え方を変えるだけである。すべて「悉有仏性」であると感じることができれば、見方が変わってくる。間違った思想(虚妄)が入ると、人は、心まで腐る。
仏教の戒めとして、「五戒」があり、その1番目は不殺生戒である。昆虫や両生類や見えない微生物でさえ殺さない農業があるなら、仏教徒として、不殺生戒を守り虫や微生物を殺さぬ人は、何人いるのだろうか。この日本人が確立した自然栽培は、仏教思想と軌を一にし、温室ガスも発生させない。
法華経の示す理想世界は、日蓮聖人のお曼荼羅の世界に帰結している。そこには敵はどこにもいない。疫病をまき散らす十羅刹女や人の子を食べていた鬼子母神でさえ、法華経行者の守護神として勧請される。この宇宙も含めた全体が法華経(大調和)そのものであり、敵(害虫)などはどこにも存在しない世界観がそこに表現されている。
法華経を唱える者としての使命、「我日本の柱、眼目、大船」の誓願は、〝世界の柱、眼目、大船〟と言い換える段階ではないだろうか。「汝、早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ」(『立正安国論』)とは、家庭が、国が、地球全体が1人の人間のように、右手と左手が喧嘩をしないで生きるようにと諭されているように感じてならない。私たちが世界に見せなければならないのは、祈りだけではなく、その行動である。「日蓮は日本国の諸人にしたしき(親)父母なり」(『開目抄』)と言われるように、小さくても、できることを行動していくことだ。檀信徒の父母として伏羲と神農の〝羲農の世(理想の世界)〟を創れる僧侶の到来も望まれる。僧侶檀信徒ともに法華経が一微塵中に、全宇宙を包含しているという揺るぎのない世界観と自覚を持ち行動することが急務だ。  (論説委員・高野誠鮮)

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2022年7月1日号

すべての事象が師であり仏祖の導き

【法師】とは僧侶の呼称の1つで古来「のりのし」と訓読し、仏法を教え導く師、仏道の指導者の意を持つ。また「法を師とする」生き方とも受けとめることができる。回想するとき愚者である自己にとって周囲の人、すべての事象が師であり、仏祖の導きであったと感じる。
過日、法友と【師僧】について語り合った。法友いわく「本師(釈尊)、祖師(日蓮聖人)、戒師(出家得度の師)、読師(読経指導僧)、学師(教学学問の教授僧)、伝師(加行所で秘儀伝授、行僧の訓育、修法相承の行儀を行う僧)など、本来ひとりの僧侶を育てるには、何人もの師が必要。手続上、師僧は1人ではあるが、真摯に求道する限りにおいて師と仰ぐ人は何人もいるもの」との言に首肯した。
3月10日『朝日新聞(夕刊)1語一会』は、神戸女学院大学名誉教授で哲学者・内田樹氏をとりあげた。兄の内田徹氏は生前、弟を「弟子上手」と評した。知識や偏見にとらわれず、誰に対しても心を開き教えを請う姿勢を持つことは容易ではない。兄は弟がいたるところに「師匠」を作る生き方に、しみじみ感心したという。
分野を問わず専門家の懐に飛び込み、知識と視点を授かる。その蓄積がジャンルの境界を超えたしなやかな論考につながる。自我を強めるのではなく、人に聞くことを通じて【自己解体】を繰り返す。いわば、教えを請い己を変え続ける姿があると取材した佐藤啓介氏は記す。
さまざまな【師】を尋ね教示を受け【自己解体】を重ねるとき視界が開け思考行動に変化が訪れる。それはあたかも、同じ街並みや景観も地上と上空から見るほどに違い、歩き方進み方が変わるように。
他方、教える側の「心得」なるものはあるのだろうか。筆者の細やかな経験ではあるが、僧侶の教育機関で訓育現場に立つ場合、あるいは少年刑務所や仮釈放後の保護観察に関わる中では【手間暇】を心掛けている。
僧侶の教育機関も矯正施設での教育、保護観察対象者への更生指導は、いずれも専門的プログラムに準じて行われる。これは【手間】の部分に相当し、技術指導を含め訓育僧侶や専門官が負うところが大きい。またプログラムに改善を加え効率化をはかることも可能である。
しかし、対象者の内面の成長や変化に対しては効率化とは逆に「待つ関わり」=【暇】をかける存在が欠かせないのではないか。僧堂修行での信行師範、または教誨師や保護司が時を共に積み重ねることにより当事者にとって、そこが「学び」と「気づき」の居場所となり、変化や成長を促し歩み出す力を得られるのではあるまいか。
《古語では「愛し」「美し」も「かなし」と読む。民藝運動を提唱したことで知られる思想家の柳宗悦は、悲しみとは、一緒に悲しむ者がある時にぬくもりを覚えるものであり、慈しみでも愛しみでもあるとした。そして「悲しみを持たぬ愛があろうか。それ故慈悲ともいう」と言った。自分1人で抱えていては悲しみで終わる感情は、他者へと向けられた時、思いがけず発熱し、美しいつながりを生みだす。》(秋山千佳著『実像 広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実』あとがき)
コロナ禍は此の地上で起こったことである。同じ場でありながら眼に映る風景も心象も今までとはすべて異なる。塗炭の苦しみとは、泥水や炭火の中に落とされたような境遇をいう。コロナ禍を共有した私どもは、人心、社会の再構築に手間暇を惜しまず、互いに主伴となって「いのち」を紡いでゆかなければならない。
(論説委員・村井惇匡)

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