論説

2022年2月20日号

敢然と北の大地に挑む

沈静化しつつあったと思えたコロナ禍だったが、年明けからオミクロン株により感染が国内でも急拡大した。2月初旬現在、感染数は減少に転じる気配はない。国内で初めて新型コロナウイルスの感染が確認されてから約2年たつが、この困難はいつまで続くのだろうか。
困難といえば、日蓮聖人のご生涯は困難の連続であった。そして聖人は法華経を弘めんとする者には幾多の困難が降りかかるとして、困難に屈することなくむしろ困難の打開にご生涯をお賭けになられた。
現在のコロナ禍と呼ばれる困難のなかにいる私たちだが、聖人の教えを引き継いだ先人が、理想を胸にどんな厳しい自然環境に挑んでいったかを知ることによって何かヒントになればと思い、約100年前に、北海道の極寒の地に法華の理想郷ともいえる「法華村」を築こうとした人たちを紹介してみよう。
北海道の開発は国策として行われた。ロシアの南下政策への対応、「異国への押え」によってはじまった。本格的な開発は、明治2年(1869)蝦夷を北海道とよび、開拓使とよぶ役所(のちの北海道庁)の設置にあり、明治20年代に入ると道庁は直接本州の離農者、貧窮の農民を対象に、積極的に北海道移住を働きかける姿勢を示した。
日蓮宗がすすめた開教事業・法華村の創設を目指した地は北海道十勝陸別の小利別だった。法華村は法華信仰による理想郷を実現して平和な同信同行の村づくりを目標とした。『十勝開拓史年表』(加藤公夫編、北海道出版企画センター)を捲ると明治45年(1912)4月15日「陸別、山梨県人15戸(法華)入植する」、大正2年(1913)4月22日「陸別、小利別原野に福岡県法華団体27戸、129人入植する」とあって、法華村創設は山梨・福岡両県の日蓮宗徒によって鍬が入ったことを記している。
山梨県からの入植の背景は、天災によって土地や職を失ったことが大きく、信仰を一にする者たちが力を合わせ、宗門の政策に乗っかり、新天地を求めたのであった。小利別の気候は初霜は9月中旬、晩霜は6月上旬、降雪は11月中旬に始まり、多いときには1・5㍍に達した。融雪は4月下旬だが、地下凍結しているため、5月下旬くらいにならなければ耕作できなかった。また気温はマイナス40℃になることもあり、年間の気温差は70℃で北海道内でも有数の寒冷地であるという。農耕地も平野がほとんどなく、起伏がおびただしい地形であった。
そういったなかにあって、法華信仰を持つ入植者は「よく根気に初志を持続し、改善に全力を注ぎ奮闘を惜しまず、信仰の信念を発揮し至極平和」であったという。
日蓮聖人は厳冬の身延山を、「昼も夜も寒く、冷たく候事、法にすぎて候。酒は凍りて石の如し。油は金ににたり。鍋・釜に小水あれば凍りてわれ、寒いよいよ重なり候…大波波地獄(八寒地獄)に異ならず。(『兵衛志殿御返事』定遺1605~6頁)と寒さ厳しき様を綴られる。これよりもさらに厳しい自然環境下で「法華村」の創設を目指したのだった。
時代に翻弄されこの尊き開教事業(法華村)は志半ばで歩みを止める。その経緯は省くが、ただ『日宗新報』(宗報・本紙の前身)を閲して思うことは、現地で信徒とともに苦闘した広瀬啓宣上人(小樽妙龍寺歴代)の努力には頭が下る。敢然と北の大地に挑んだ志や美事。日本はコロナ禍でもがく日々だが、停滞した社会を打破するには、信仰に裏打ちされた開拓者精神も必要であろう。困難に直面しても前を向き続けるのが法華魂である。 (論説委員・中條曉秀)

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2022年2月10日号

馴れぬ齢を生きるには

「人はみな馴れぬ齢を生きている」(歌人・永田紅の短歌の上句)をこの正月からしみじみと噛みしめています。70を超え、体力、気力の衰えが身に染みてきたのです。コロナ禍でできないことを理由に委縮していく社会に抵抗しながら、法要、行事を過度に自粛せず、馴れぬ齢に鞭打って精進しています。先月は寒行で20数人の檀信徒と1週間、街頭を撃鼓唱題で行脚しました。批判覚悟で申し上げますが、感染のリスクより、修行の功徳を優先する信徒に素直に敬服しました。コロナや年齢を言い訳にせず、行学の二道に励む覚悟を再考させられた大寒でした。
昨年は伝教大師最澄の1200遠忌でしたので、12月に比叡山に登詣し、山内を巡拝しました。根本中堂や日蓮聖人修行の聖地で三十番神影現の横川には何度か参拝したことはありましたが、今回はその他の諸堂、特に伝教大師の御廟浄土院にお参りできました。12年の籠山行の仕上げはこの御廟で大師に給仕することだそうで、確かに修行中の凛とした空気が廟内に漲っていました。「蓮長」の名の時代の日蓮聖人も天台法華を学ぶため、この籠山行を勤められたのでしょうか。それにより、天台大師から続く伝教大師の法華経信仰を信受され、立教開宗へとつながっていったのでしょう。
あわせて、根来寺、高野山、長谷寺、琵琶湖畔の三井寺、日吉大社などにも立ち寄り、日蓮宗より400年以上も古い奈良平安仏教の奥深さに触れ、その佇まいの厳かさと優美さに感服しました。その上で日蓮聖人が法華経信仰の師と仰がれた最澄のことをもっとよく知らなければと、遅まきながら浅井圓道先生の『伝教大師』で学び直しました。最澄の出自は渡来人の秦氏で、誕生が比叡山の麓、近江でした。
昨年没後1400年の聖徳太子の事績を調べた折、太子の引き立てで活躍した秦河勝という渡来人の一族を知りました。その後の大和や奈良の朝廷を支え、桓武天皇の平安京遷都の経済基盤を担い、伝教大師の天台法華による鎮護国家という京都朝廷を中心とした天台宗が興隆していく背景にも秦氏の擁護がありました。またもや秦氏かと驚いた訳です。
平安京建設に当たり、秦氏は京都周辺に居住し、養蚕、機織、鍛冶、酒造など多数の渡来人の技能集団を擁していました。洛外で朝廷を支え、権力にはくみせず、日本文化と融合しながら、独自の宗教、文化を築いていきます。その活動拠点が京都の深草や太秦、近江であり、そこには秦氏の氏神で、伏見稲荷、松尾大社、日吉大社、石清水八幡宮があります。これらはみな日蓮聖人の法孫日像上人の京都開教の旗印である法華神道三十番神であり、京都町衆のほとんどが法華に入信し、その後の都を中心とした流通経済を司る法華宗徒の活躍は、室町から徳川初期の時代まで続くことになります。この日像上人の荼毘所、墓所は秦氏の拠点深草にあり、その後の壺日審上人、元政上人もなぜかこの地を終の棲家としています。またこの深草には秦氏の番神山古墳もあり、日蓮宗と三十番神と秦氏の深い縁を感じさせます。
NHK大河ドラマの「鎌倉殿の13人」は日蓮聖人ご生誕の50年前頃からの物語です。北条氏の歴史は、日蓮聖人を庇護した比企、平賀、千葉、伊東氏など反北条の一族との抗争であり、その一族と秦氏、渡来人、源氏との関係など興味深く鑑賞すれば、新しい日蓮聖人像が浮かぶかも知れません。
馴れぬ齢を生きることは満更でもありません。若い頃より新しい発見が続々と顕れるからです。
(論説委員・岩永泰賢)

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