ひとくち説法
2021年5月20日号
長い目を持つこと
長い人生には、いろいろなことが起こると思います。一時は悲しいこと、つらいこと、泣きたいこともあります。ところがあとになって考えると、かえって良かったと思われることもあります。
中国の故事で「塞翁が馬」という言葉があります。中国の北の要塞近くに住む老人(塞翁)が、馬を飼っていたが、逃げられてしまった。老人は嘆かなかった。数ヵ月後、逃げた馬が、良い馬を連れて帰ってきた。老人は喜びもしなかった。老人の子は乗馬を好んだ。ところが落馬して足を折ってしまった。1年後、戦争が起き、たくさんの若者が命を失ったが、老人の子は足が悪かったため、戦争には行かずに生き残ることができた。
この話は、人生において、何が幸いするかわからないというたとえです。コロナ禍の中で、どんなことがあっても立ち上がれる人、どんな不幸があってもじっと耐えられる人。そうなるには「長い目」をもつことが必要かもしれません……。
(東京都東部布教師会長・鈴木貫元)
2021年5月10日号
親に申し訳ない
昨春、私は自分の身体の一部とお別れをした。17年前に医師から「胆石がある」と言われていたが、強い痛みがないためそのままにしていた。否、そのままではない。手術での胆嚢切除を嫌い、「効く」というお茶や生薬を飲んだりもした。しかし、自分の意志に反し、石はどんどん成長した。
覚悟して専門医を訪ねると、「単孔式腹腔鏡下手術で胆嚢を取るので日帰りでも可能」とのこと。医療の進歩に驚嘆し、長年の不安は吹き飛んだ。
〝胆嚢〟と過ごす最後の夜、彼に好物を振る舞い、60年余の労に「今までありがとう」と深謝。ささやかなお通夜、否、お別れ会を独りで営んだ。手術当日入院、翌朝退院。経過は良好である。ただ「父母に申し訳ない」と、今になって思う。親が身を削り、生み育てた〝この身体〟だから…。
コロナ禍の中、お祖師さまの「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足」の金言が心に響き、命の継承を痛いほど感じた。そんな出来事であった。
(北海道北部布教師会長・中村啓承)
2021年5月1日号
なろう、なった、その次は
「信頼される僧侶になろう」「尊敬される僧侶になろう」「人の心の痛みのわかる僧侶になろう」「社会から必要とされる僧侶になろう」。これは私が身延山で信行道場という、日蓮宗僧侶の資格を得るための修行の折に、主任先生から賜った言葉です。以来、座右の銘としています。
「僧侶」の部分にそれぞれの立場「人」「親」「子ども」「孫」「姉」「弟」「夫」「妻」「先生」などに置き換えるといかがでしょうか。できている人もいれば、難しい人もいるかと思います。
ここでは「なる」のではなく、この「なろう」と精進し続ける心持ちが求められています。「なろう」と心を奮い立たせるのですが、これがなかなか。そして最近ふと「なった」後はどうなるのかと素直な疑問が芽生えました。
「なっても」「なり続ける」という厳しい次があることに気づかされました。皆さまと一緒に善き心を受け持ち続けてまいりたいのもです。
(千葉県西部布教師会長・木村順誠)