2021年5月20日
身延山開闢750年
日蓮宗の総本山身延山久遠寺では、毎年6月17日、日蓮聖人が身延に御草庵を結ばれたことを偲び「開闢会」法要並びに、その前の日曜日に入山行列が古式ゆかしい伝統にのっとり催されている。令和5年(2023)には、身延山開闢750年という慶事を迎える。
開闢とは、「かいひゃく」とも読み、天と地が初めてできた時、世界の始まり。信仰の地として山を開き、あるいは寺院などを建てること、とある。
文永11年(1274)4月8日、日蓮聖人は鎌倉幕府に召喚され、その折に侍所所司平頼綱へ3回目の国諌を行ったが聞き入れられず、波木井実長公の招きで身延へ入山される。その様子は、『富木殿御書』に次のように記されている。
「十二日酒輪、十三日竹ノ下、十四日車返、十五日大宮、十六日南部、十七日このところ。いまださだまらずといえども、大旨はこの山中心中に叶て候へば、しばらくは候はんずらむ」。(祖寿53)
当初、日蓮聖人は身延に定住することなく、日本を流浪する覚悟であったことが窺える。
ところが、丁度、1ヵ月後の6月17日に庵室を建立し、身延定住を決せられたようだ。建治3年(1277)に認められた『庵室修復書』には、
去文永十一年六月十七日に、「この山のなかに、木をうちきりて、かりそめに庵室をつくりて候し」とある。身延山では庵を結ばれたことを「開闢」としている。
身延山の歴史を見ると、身延山第11世行学院日朝上人が『身延御書抄』のなかで「六月十七日ニ此山を開闢シ玉フ」と記述し、これが身延山「開闢」の初見といわれている。更に降って、第33世遠沾院日亨上人に至り、宝永7年(1710)6月17日に「開闢会」を創始したとされている。
日蓮宗の憲法である「日蓮宗宗憲」あるいは法律である「規則」「規程」には、身延山を祖山として位置付け、尊崇する条文が数多く謳われている。しかし、入山・開闢に関わる事項を見ることはできない。
日蓮聖人が認められたご遺文(真筆・曽存・写本を含めて)4百数十篇のうち、3百篇弱(約70%)、また、御曼荼羅(現在判明の真筆)127幅中108幅(約85%)が身延期のものである。
日蓮聖人は身延の地を「九箇年の間心安く法華経を読誦し奉候山」と表現され、弟子の教育、檀越への布教に心血を注がれた。さらに日蓮聖人の絶筆の書ともいうべき『波木井御報』〈弘安5年(1282)9月19日〉には「墓をばみのぶ沢にせさせ候べく候」と遺言され、ご入滅後、ご遺骨は身延山へ葬られた。身延山が「棲神の地(日蓮聖人の神(たましい)が棲みたもう聖地)」といわれる所以である。
日蓮聖人滅後、身延山は栄枯盛衰を繰り返しながら、現在に至っている。前述の行学院日朝上人から第30世寂遠院日通上人に至る20代、219年間、130を超える宿坊が建ち、身延詣での人びとで溢れかえったという。一方、明治8年の大火では全山の殆どの堂宇が焼失し日蓮聖人の重要書籍が失われた。昭和34年(1959)の伊勢湾台風で御廟所は甚大な被害を被った。
宗憲第62条には、日蓮聖人に関わる儀式行事として、「入山」あるいは「開闢」の文字を見ることはできない。2年後に身延山開闢750年を迎えるにあたり、今一度その意義を問い、日蓮聖人の9ヵ年の意義を再検証する時が来ている。
(論説委員・浜島典彦)