論説
2021年3月20日号
時代に即応した宗門運動の歩み
[第1期宗門運動]
昭和20年代、戦後の混乱とともに農地改革が行われ、寺社領を失った寺院は大打撃を受けた。加えて家族制度が崩壊すると都市に人口が流入し、地方寺院は檀家減少となり存続の危機が高まった。日蓮宗では宗門意識高揚のため革新的宗学の樹立・宗政民主化などを綱領とした日蓮宗革新同盟が結成された。戦後の混乱から宗門寺院の立て直しを図った運動だった。29年ビキニ水爆実験が行われれると原水爆禁止の世論が高まり、日蓮宗では核兵器に対し仏教教団として唯一の世界立正平和運動が結成された。お題目による立正安国の平和運動である。この運動は立正平和の会に引き継がれた。30年代、宗門の体質改善や日蓮宗への帰属意識が叫ばれ、新たに提唱されたのが宗徒総決起大会だった。宗徒としての自覚を促す運動だった。
[第2期宗門運動]
41年に始まった護法運動は、日蓮宗の本化教義の伝道を目的とし、同時に新興宗教の攻勢や社会混乱に対応不十分だった宗門の自省を促す運動だった。台頭する新興宗教を意識し、かつてなかったほど組織的に護法布教がなされた。46年、宗祖降誕750年慶讃大法要が奉行され護法運動の総決算がなされた。この運動を一層推進するため新たに護法統一信行が提唱された。「檀家を信徒にかえる」をスローガンに宗門中央本部と管区支部が連携しリーダー布教師研修を開催、初の統一教本『信行必携』による檀信徒研修や唱題行が全国で実践された。この運動は開始から10年後の宗祖700遠忌正当(昭和56年)に結実した。
[第3期宗門運動]
60年に提唱されたお題目総弘通運動は、立教開宗750年慶讃(平成14年)を目標に、檀信徒教化はもとより社会全体にお題目の意義と功徳を知らしめる運動だった。内容的には建物整備や慶讃事業、助成金など内面的充実が優先された。運動結実後、お題目の教えで安穏な社会を築くために提唱されたのが平成19年に始まった「立正安国・お題目結縁運動」だった。平成21年立正安国論奏進750年慶讃と令和3年宗祖降誕800年慶讃を奉行するとともに、「敬いの心で安穏な社会づくり・人づくり」が運動目標とされた。スローガンは「いのちに合掌」、その行動原理を常不軽菩薩の「但行礼拝」の精神に求めた。すべてのいのちに仏性(仏身)を観て但ひたすらに礼拝行をした釈尊の修行の姿だ。日蓮聖人は常不軽菩薩品の24字「我深敬汝等・不敢軽慢・所以者何・汝等皆行菩薩道・当得作仏」(私は深くあなた方を敬います。けっして軽んじてあなどりません。なぜならあなた方も菩薩の修行をして仏さまになるからです)はお題目と同意だと教示されている(『顕仏未来記』)。但行礼拝=お題目なのである。この但行礼拝の実践者こそ仏教者による初のハンセン病療養所身延深敬園を創立した綱脇龍妙上人であり、『雨ニモマケズ』の宮沢賢治だった。
「本宗の宗門運動は、祖願達成のため異体同心をもって行う」(日蓮宗宗憲第9条)とあるように、宗門運動は僧侶檀信徒一体となってお題目による社会の平和を目指す運動である。
戦後からの宗門運動の歴史を見ると現代ほど「いのち」をテーマにすべき時代はない。急増する自死や孤独死。多死社会に向かいつつある現代日本社会にあって、今求められていることは孤立、孤独、貧困などいのちの苦悩に寄り添う活動である。宗門運動もあと1年。社会のニーズに応える「いのちに合掌運動」として継続的不易な運動の展開を期待したい。
(論説委員・奥田正叡)
2021年3月10日号
御降誕800年 立正安国・お題目結縁運動
■御遺文要文集の発刊
この度、「日蓮聖人降誕八〇〇年並『開目抄』述作七五〇年慶讃報恩事業」として、『日蓮聖人に学ぶ―御遺文要文集』が発行された。これは埼玉県布教師会と日蓮宗新聞社との編集によるものである。
1日から31日まで、毎日ご遺文の要文を拝読でき、また携帯にも手頃の頁数に編集されている。さらに『昭和定本』『平成新修』『日蓮聖人全集』の頁数も記載されており、より広くかつ深く拝読したい人のための仕様になっている。
巻末には宗門ご聖日の要文も付せられていて、早速、ご降誕会に拝読言上させていただいた。
日蓮聖人800年記念事業が、全国各山各寺でさまざま行われているが、私はこの要文集を拝受して、これは良いことをなさったと感動し、心から敬意を表させていただいた。
日蓮聖人は、人類史上大いなる天命を持たれてこの地球世界にお生まれになられた。そして艱難辛苦のご生涯の中で、人類救済の偉大にして貴重な法門をお伝えになられた。その法門は脈々として宗門に引き継がれてきているが、今は聖人から直接聞くことはできない。しかし、聖人はたくさんのご遺文を残してくださった。
私たちはそのご遺文から聖人のお説法を聴くことができる。ありがたいことだ。
■人類世界の希望の光
ご降誕800年の慶祝の年に世界中がコロナ禍に見舞われている。コロナ戦争といわれるほどの多くの人びとが尊い命をなくしている。世界中の人びとが、世界平和が大切だと痛感している。このコロナ禍の克服のためにワクチンの接種が始められた。
一方、地球温暖化が進んで、自然災害が頻発している時に、パリ協定から脱退していた米国が復帰し、さらにWHOからの脱退も取り止め、米国第一主義から国際協調主義へと舵を切った。
長きにわたって叫ばれてきた核兵器禁止条約が発効し、核廃絶への扉が開かれた。
地球世界の現況を達観するに決して悲観することはない。前途には明るい希望の光の兆しがさしている。
ご降誕800年のめでたい時に、外出が制限されたり、団体行動ができなかったり、まことに淋しい思いである。しかしこういう時にこそ、聖人のみ声に耳を傾け、将来の希望の光を見つめて、聖人のご遺文を拝読して唱題することが、私たちの進むべき大道である。
■今だからこそお題目
ポスターの地の全面に桜の花が写り、その中央に臨滅度時の大曼荼羅のお題目が掲げられ、その下に水鏡のご尊像が勧請されている。その右側には「令和三年日蓮聖人降誕八百年記念」とあり、左側には「今だからこそお題目」とある。
このポスターは山梨県連合布教師会が作製し、県下全寺院に配布されたという。
コロナ禍で心が沈み、暗くなりがちな世の中を、明るく照らす希望の光を授けてくれるものは何であろうか。聖人と向き合い、ご遺文を拝読して涌き上がってくるものは、お題目なのだ。お題目で私たちの魂を輝かせて、今の世間を南無妙法蓮華経の希望の光明で照らしていくことだ。
日蓮聖人いわく、「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、この人世間に行じて能く衆生の闇を滅すと、この文の心よくよく案じさせ給え。…(日蓮の)弟子檀那とならん人々は、宿縁ふかしと思うて、日蓮と同じく法華経(南無妙法蓮華経)を弘むべきなり」と。
まさに「今だからこそお題目」である。 (論説委員・功刀貞如)
2021年3月1日号
三大誓願というバイアスで見る
他者の行動の原因は、性格や態度、知能といった「内面」に求めるのに対し、自己の行動は「状況」のせいにする。たとえば、同僚の遅刻には「ルーズなやつだから」と思う一方、自分が遅刻すると「昨日、仕事で遅かったから」と言い訳をする。こうした考え方のクセは「対応バイアス」と呼ばれる。(1月16日付『朝日新聞』夕刊【いま聞くインタビュー】鈴木宏昭・青山学院大教授の記事から)
「バイアス」とは、私たちが持つ偏見や先入観、物事を色眼鏡で見てしまっていることをいう。鈴木氏は、「自粛警察」などコロナ禍における他人への厳しい眼や態度には、対応バイアスが隠れていると分析する。
また「心理学的本質主義」といって、人は「日本人らしさ」「男らしさ」など、集団の本質的要素でカテゴリー化する傾向があるとのこと。これは、新型コロナウイルスの感染が縮小しない地域に対し、〇〇に住んでいるから、遊びまくっている連中だから、といった他者を「個」でなく「集団」としてとらえることにつながると指摘している。
鈴木氏は、「バイアスから逃れるのは非常に難しい。だが認知バイアスを持つこと自体が悪とは言えない。得られた情報を判断する際に、自分にも他人にもバイアスがあると自覚することが重要。コロナ禍にあっては、人の生活全般を見据えた政策と個人の冷静な意思決定こそが求められている」と語る。
年が明け「緊急事態宣言」が再出。そして延長された。世態は多種多様の声、相反する主張が繰りひろげられ、分断の様相を呈している。しかしコロナ禍であっても、2月16日には日蓮聖人降誕800年ご正当を奉祝し随所で慶讃の誠が捧げられたことであろう。
宗務院伝道部発刊のリーフレット『日蓮聖人のお生まれになった日』に載る小湊誕生寺蔵「三奇瑞図」を見ると、庭先からは清泉が水柱をたてて湧き出し産湯に使った「誕生水」、浜辺に青蓮華が咲いた「蓮華ヶ渕」、海面に大小の鯛の群れが集まった「妙の浦」が彩鮮やかに描かれている。
昨年、本紙で三奇瑞は『開目抄』に示される「三大誓願」
我れ日本の柱とならむ
我れ日本の眼目とならむ
我れ日本の大船とならむ
に通ずるとの教学発表の取材記事を読んだことを思い出した。湧泉の水柱は【柱】、青蓮華は仏が備える三十二相の1つ「眼色如紺青相」(紺青色は仏陀の眼の色)で【眼目】、鯛は【大船】を意味するという。
かつて日蓮宗管長で立正大学学園総裁であった池上本門寺貫首の田中日淳猊下は、立正大学の卒業式で宗祖の「三大誓願」と石橋湛山先生が提唱された「建学の精神」にふれ、卒業生に家庭や会社、あるいは地域社会それぞれの道において柱となり、眼となり、船となることを祈念せられ贐の言葉とされていたことが思い合わされる。
あらためて、私どもの日々の信行を見つめ直す時、大曼荼羅御本尊を拝むこととは、向鏡の姿であることに気づく。十界互具の大曼荼羅は、我々の身心が十界互具であることを示し、大曼荼羅御本尊とは自己の身と心を写し見る明鏡である。
悪世末法の世にあってこそ、私にある地獄、餓鬼、畜生、修羅の心と姿を直視すると共に、自他にある仏身を観ることを忘失してはならない。私という一己の露命が日蓮聖人のご誓願を受け継ぎ、己の置かれた場において小なりとも柱となり、眼目となり、船となって800年からの一歩ずつを刻む姿が地涌の菩薩の流れを汲む生き方ではあるまいか。
(論説委員・村井惇匡)