2020年9月1日
もういいコロナ
大東亜戦争の敗戦から75年の夏が過ぎます。コロナ禍の中、豪雨・猛暑の天候異変、原爆記念日、盂蘭盆など大きな変革を余儀なくされた夏でした。中でも私にとって最も大きな衝撃は、先月4日の北九州市・眞浄寺中村潤一上人の早すぎる遷化でした。上人はオピニオンリーダーとして多方面に渡り発言、寄稿し、日本ペンクラブにも所属したすばらしい執筆家でした。解り易さと面白さを信条とした軽妙な文章と、精力的な活動は多くの読者やファンを集めていました。
上人は「昭和20年8月9日小倉の天気が良かったら俺はここにはいない」とよく言っていました。それは原爆投下の目標が曇天のため小倉から長崎に変更されたからです。その75年後の原爆の日を目前に亡くなったのです。この論説も上人の予定でしたが、6月末、手術のための入院の折、本紙を含め全ての連載を断ったそうです。少し延期でいいのではという周囲の声も聞かず、生きがいの原稿書きの筆を折ったのですから、よほどの不調と覚悟があったのでしょう。入院前後の頃は闘病の経過や「面会できんぞ、コロナのせいで」と元気な声の電話がきていましたが、しばらく途絶えていた8月1日「もうキツイ、そろそろいいバイ」といつもと違う、か細い声で電話がかかりました。私はその声の力の無さと気弱なことばに愕然とし、「まだまだ早か、カラ元気を出してでも連載途中の原稿を完成させんば死なれんバイ」と励ましながらも不安がよぎりました。いつもは自分の用件だけを言ってすぐに切るくせに、何だか名残惜しそうに電話が終わったのです。何か気になり、その夜の内に三十番神の絵はがきに「病気と仲良くしながら、これから書きたいことの構想をじっくり練ること、番神さまのご利益倍増疑いなし」と書いて投函しました。その2日後に訃報が届いたのです。ハガキは読んでくれたのだろうかと思いながら駆けつけましたが、残念ながら病床までは到らず、読まれることなく棺に納められました。上人の遺言で、通夜の導師と挨拶をしましたが、3密を避けなければならない法要に檀信徒の皆さんがぎっしり詰めかけ、一心にお経とお題目を唱和し、別れを惜しみました。翌日の密葬、出棺と大勢の皆さんの「潤ちゃんさよなら、ありがとう」と、太鼓を打ち鳴らしての心のこもったお見送りは、すすり泣きの中での感動的な惜別でした。
上人は宗門の役職、幾多の連載の執筆、テレホン説教、講演や保護司、教誨師の社会奉仕など、当に多忙を極める中に、まずお寺と檀信徒を本分として、教化伝道に邁進していました。持ち前の押しの強さと優しさで、しっかりと人びとの心をつかんでいたのです。その絆の強さがこの涙の別れになったのでしょう。正しく坊さん冥利に尽きるというものでしょう。格好には拘らず、こよなく酒と駄洒落を愛し、居酒屋では口角泡を飛ばして喋り捲る好々爺でした。とてもこのコロナ禍の生活には耐えられなかったはずです。「俺はもうそろそろいいコロナ」と得意のオヤジギャグでみんなを煙に巻きながら享年78歳で逝ってしまいました。
この眞浄寺山門前の石碑には日蓮聖人の『報恩抄』の「花は根にかえり 真味は土にとどまる」の一節が刻まれています。中村上人の根っ子には眞浄寺があり、ここが俺の霊山であり、久遠の修行の道場だと言わんばかりです。コロナ後の世界はどうなるのか、疫病だけでなく、災害や戦争も目前にあり、私たちはどう生きればいいのか試される秋が来ます。中村潤一上人の生きざまは良き手本になるに違いありません。共に霊山往詣を祈りましょう。合掌
(論説委員・岩永泰賢)