論説

2020年5月20日号

ウイルスは悪者なのか

 新型コロナウイルス感染症が日本を含め全世界で猛威を奮っている。医療システムの混乱、経済活動の沈滞、社会不安が広がっている。それらの混乱が疑心暗鬼を生み、科学を、医療を、経済を、政治を、他国を、すべてを疑いの目で見るようになり、混乱に一層拍車がかかっている。
 多くの人が、感染者の軽率な行動を非難し、行政の緩慢な対応を謗り、検査体制や医療体制の不備を批判し、生活の糧を失った原因を政治の責任にし、やりどころのない不安を他者にぶつけて留飲を下げている。そういう人たちの心の中にこそ知らないうちにウイルスが感染し蔓延しているのではないか。
 有史以来、感染症は人類の生存を脅かしてきた。天然痘、ペスト、赤痢、インフルエンザ、はしか、マラリア、結核等々、枚挙に暇がない。つい近年まで国民病であった結核はBCG接種で予防し薬剤で治療できるようになり、幼小児期のワクチン接種でジフテリア、百日咳、破傷風、ポリオ、はしか、風疹、水ぼうそう、日本脳炎などの感染症がかなりの部分予防できるようになった。しかし、ここにきて昨年来の新型コロナウイルス感染症の蔓延によって、人類の感染症との闘いが終わっていないことを思い知らされる事態となった。
 それでは、ウイルスや細菌など、人間の命を脅かす病原体は、悪者なのだろうか。本来ウイルスや細菌などの病原体は、悪魔や悪鬼のようにあわよくば人間の体と心を犯そうと虎視眈々と狙っているような存在ではない。存在そのものに善や悪の性質があるのではなく、様々な経路で人間の体に入った結果として病気を引き起こし、時には死に至らしめる場合もあるものの、腸内細菌のように人間にとって有益な働きをしている場合もある。
 『九横経』は、寿命が尽きないうちに横死することの九つの原因を上げ、できるだけ行ないをつつしみ、定業として与えられた命を息災に暮らすように勤めるべきであると説く。九つの原因に、食事や生活の不摂生に関する八項目の後で、九番目として「避けるべきことを避けないこと」が上げられている。その内容は、「牛が角を突きあったり、馬が脚を跳ね上げあったり、車が通る道端、工事現場や、酒に酔った人や、人に噛みつく犬など、避けて近づかないようにするべきところに近づいて死ぬことを横死と言う」と説明されている。現代のように病原体の性質や感染経路についての知識が普及している時代に、敢えてそれらに近づくような行動をして感染し、自ら生命の危険に至ること、他人に感染を媒介することは、『九横経』の教えに反することになる。3つの密(密閉・密集・密接)を回避すべきとの社会的要請は、『九横経』の教えに合致している。
 日蓮聖人は『立正安国論』の中で、世の中に正しい教えが行われていないと様々な不幸な現象が起こるとする経典を引用して、次のように述べている。「『仏法が滅びようとするのをみて、見捨てて護ろうとしないならば、その国に3つの不吉なことが起こるであろう。3つとは、飢饉、戦乱、疫病である』(大集経)。災難の原因は正法を護らないことにあるとする経文の証拠である」と。現今の疫病の蔓延に伴う社会の混乱を見るにつけ、この現象は単にウイルス感染症による混乱とみるのではなく、その根底に混乱を増長する人間社会の思想的混乱があるのではないかと熟慮を巡らす必要がある。
 ウイルスそのものに善悪はない。人間の対処法の良し悪しによって、善にもなり悪にもなるのである。人間のありようが今問われている。
(論説委員・柴田寛彦)

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2020年5月10日号

文明国である条件

 新型コロナウイルス感染騒動の真只中の3月16日、神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で、約3年8ヵ月前の平成28年7月、入所者19人の命を奪い、職員2人を含む26人に重軽傷を負わせた、元同施設職員の男に、横浜地裁は死刑を言い渡した。
 「重度障害者を育てることは間違い、殺せば不幸はなくなる」「障害者に使われている金をほかにまわせば社会に役立つ」と、障害者を差別し排除するその言動と動機、公判中も一切自省を見せず命の価値に序列をつけ、強い者だけを残し弱い者は摘むべしとして、凶行に及んだ所行は許すわけにはいかない。
 しかし、しかしである。インターネット上では、それを容認する意見も少なからずあったことは事実で非常に残念である。
 加えて報道によれば、横浜地裁は被害者の大半を「甲A」「乙B」などの記号のまま審理し、判決の当日遺族らの傍聴席の周辺を一切遮蔽していたという。遺族や家族を実名公表することや姿を見せることによって、差別や偏見に遭うことを懸念してのことであろう。そうしなければならない現実を踏まえると、「共生社会」「共栄社会」の道のりは長いと感じざるを得ない。
 ところで、平安時代の初頭、天台宗の伝教大師最澄(767~822)と法相宗の会津恵日寺の徳一(760?~853?)との間で、教学上の大論争が起こる。817年に始まり最澄の死で終わるが、この論争を「三一権実論争」という。「三一」は三乗と一乗のこと。「権実」は方便教と真実教のこと。つまり一乗思想と三乗思想の真実性を巡る論争で、どちらが正しいかということである。「乗」は運載の義であるから「悟りの世界に運ぶ乗り物」と理解してよかろう。天台の最澄は一乗の立場、法相の徳一は三乗の立場に立つ。
 最澄は人間すべて平等である。すべての人は悟りを得ることができる。1つの乗り物に乗せて成仏(一仏乗という)することができると、法華経―譬喩品の三車火宅の譬―を論拠として「真実」であると、力説する。
 これに対し法相の徳一は「五性格別」を立てて反論する。現実を見よ。現実の娑婆はそうではない、賢愚・強弱・美醜・貧富などなど区別がある。生まれながらにして声聞や縁覚にしか至れない人。仏になる素質を持った人もいる。心掛け次第で何とかなる人。しかし「無性有情」といって箸にも棒にもかからぬ奴もいる。これが現実であって娑婆で「真実」だと、声を大きくする。
 ある意味で法相の徳一の方が実態を踏まえていて正しいように思うが、これでは悲しい、これでは救いがない。宗教とは、衆生が苦しみ●く時、救いを求める拠り所である。現実すぎる法相の徳一よりも、一仏乗を説く最澄に軍配はある。
 日蓮宗の依経は法華経、法華経は一仏乗であるから「命」に差別も序列もない。だから「命に合掌」は似合う。
 世はコロナ、コロナである。そのコロナウイルスに攻め込まれている。全世界の全人類の人命を脅かしている。正に国難で日蓮聖人の『立正安国論』に説示される「人衆疾疫の難(疫病が流行し多くの人々が病に罹り死亡する災難のこと)」である。1日も早い収束を願い、早期のワクチンの開発を希っている。
 文明国である条件は、GNPでもなければ経済力でもない。ましてや軍事力でもない。人命と公衆衛生に対する鋭敏さ、にあるのである。
(論説委員・中條暁秀)

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2020年5月1日号

振舞いを考える

 「不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候いけるぞ、賢きを人と云い、はかなきを畜といふ」(『崇峻天皇御書』)
 日蓮聖人が身延のご草庵で、四条金吾に対し、法華経の信徒として賢き振舞いをするようにと諭された文で、謹慎中の短気な金吾に、自重して生活するようにとさまざまな指導をされたのです。大事な信徒である金吾を思いやる聖人のご心中が偲ばれ、人の振舞いを問う重要な御書です。
 令和の新時代になって丸1年、このようなコロナ禍の大変な時節が到来することを誰が予測できたでしょうか。感染拡大が止まらず、初夏の好季節とはいえ、先の見えない不安に戦々恐々の今、必ずやこの疫病は沈静化することを信じ、新緑と共に新しい1歩を踏み出しませんか。
 今の私たちにとって大事なことは、終息後の世界をどう生きるのかを考えることだと思うのです。
 これからは、どのような世界に生きたいのか、住みたいのか、新たな価値観を創造し、共有する機会は目前に迫り、人類は大きな岐路に立たされていることを自覚しなければなりません。
 医療関係者は命がけで感染阻止のため不眠不休で奮闘しています。一方では深刻に受け止めない人、何もしないほうが間違いはなくていいと過剰な自粛に向かう人など、難しい課題山積の中で総ての人が決断を迫まれています。感染による生命の危機、緊急事態による経済、生活の不安、感染拡大による人間関係の不信、長期化による心や家族の問題などに宗教はどう対処していけばいいのでしょうか。九州では、日蓮聖人ご在世の鎌倉時代に疫病退散のために仏教で始まったといわれる博多祇園山笠の中止が決定しました。もう疫病には宗教は役に立たないということでしょうか。仏教や寺院の存在意義が今こそ問われているのです。お寺は何ができるのかを試行錯誤しながら高齢者の安心のために法要行事は実施し、家庭でくすぶる子どもたちにはお祖師さまの絵本やアニメを配ったり、ささやかな取り組みを続けていますが、もっと大事なことがあるはずです。皆さまのご教導を願います。
 私の居住地は西九州の果て、人口15万人の島原半島です。ありがたいことにまだ感染者が出ていません。かねてより陸の孤島、限界集落といわれ、公共交通機関も減少し、交流人口も希薄な田舎です。都市部に比べると残念ながら近代化は遅れています。まだ自然と共生した生活をしている老人がほとんどです。だからこそ、感染の確率も低く、免疫力も多分強いのでしょう。幸福の基準も低いので、現状に不平不満をいう人も少ないようです。今後どう展開していくのか心配ですけど、危機感は共有していかなければなりません。まだまだこの疫病は続くでしょうし、自然災害、国内外の政情不安による紛争などいつ勃発してもおかしくありません。こんな時こそ、冒頭の日蓮聖人のおことば「人の振舞いにて候いけるぞ」を肝心として、不軽菩薩の人を敬う生き方、「いのちに合掌」を改めて自覚し、自身の振舞いを正さなければならないのです。
 地域社会の核として活動してきた本宗寺院は生き残りをかけて存在意義について考え直しましょう。幸福の基準を再確認し、家族、友人、国民とその価値観を共有していく社会を創生していくことに寄与していこうではありませんか。その基準のヒントはバブル経済以前の昭和40年代の日本人の生活にありそうです。50年前のその頃の私たちを思い出してみませんか。
(論説委員・岩永泰賢)

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新年のご挨拶。

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    中尾堯著
    日蓮宗新聞社
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  • 日蓮聖人―その生涯と教え―

    日蓮宗新聞社編
    日蓮宗新聞社
    定価 826円+税

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