2020年2月1日
生きている人のための仏教
令和最初の正月も過ぎ、節分の準備を考える季節が来た。寺に、多くの参拝者があるわけではないが、日本人の歴史に深く根付いているから参拝者がおられる以上、それなりの準備も必要だ。今年も、報道番組を視ると神社仏閣に参拝する多くの善男善女が列を作っていた。誰もが幸福を祈るのに違いない。にもかかわらず天災や事件・事故・病気などで毎年多くの人達が亡くなっている。果たして、祈りだけでこれらから逃れる事ができるのかと疑問をお持ちの方もおられるのではないか。
宗祖のご生涯は「事」(実践)で貫かれていたが、それは「理」(理論)が確立しておられたからだ。「理」なくして行動はないが「事」のない「理」は机上の空論に過ぎない。
さて、今年の2月でインドシナでの活動が満40年となる。これだけ続けていると現地の変化が手に取るように見えてくるのだが、やはり仏教の衰退が著しいといわざるを得ない。イスラム化が止まらないのだ。以前にも書いた覚えがあるが、熱心な仏教徒が多かったタイでイスラム化が進むのは「仏教は何もしてくれない」(多くのタイ人の発言)からだ。
ではタイの比丘達が何もしないでいるかといえばそんなことはない。にもかかわらずイスラム化が、貧しい人達から順に進んでいる。ここに上座部仏教故の限界が見える。彼らの戒律では防寒着などを身につけることは許されていない。だから今でも南方(インドシナから南アジア)にのみ拡がっているのだが、その南方には多くの発展途上国がある。いまだにランプの生活を続けている人も珍しくない。衣食住の苦労はもちろんのこと、怪我や病気の治療を受ける機会など皆無という人たちもいる。
それでも彼らは寺と比丘を頼って生きてきたが、悟るまで法を説くことはできないという戒律で生きる比丘達の限界(世界の発展に対応できないこと)を知った。それがイスラム化の最大の要因だと言えよう。貧しいイスラム教徒は教団がその生活を守ってくれる。祈ることで命が救え、幸せになっていれば人々の心は動かなかっただろうが。
その原因となった戒律の殆どを捨てて立ち上がった大乗仏教なら人助けは大得意となるはずだった。
ところが、中国で儒教の影響から始まった先祖供養が主流の大乗仏教もまた、生きている人を救えなかった。日本ではイスラム化こそ進んでいないが、維持が苦しい寺が主に地方で続出している。これを、仏教全体のテーマとして捉えよう。
釈尊がアーナンダに仰ったとされる「お前たちは修行完成者(=仏陀)の遺骨の供養にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ」(中村元訳『仏陀最後の旅』〈岩波文庫〉)に、教えが凝縮されている。 もう一度釈尊の仏教に立ち返る必要があろう。そこには、私たちが当然のように行なっていた行事や考え方を根底から覆すお言葉がちりばめられている。世の中は生きている人が創っている。生きている人達のための仏教に目覚めようではないか。人々が安心して生きられない社会を先祖が喜ぶだろうか。
(論説委員・伊藤佳通)