2019年5月19日
大阪和泉 日限七面大明神大祭
【大阪和泉】初夏の日差しが降り注ぐ5月19日日曜日、今年も堺市内本覚山経王寺で佐野一秀住職を導師に、管内修法師十二名出仕のもと、『日限七面大明神大祭』が執り行われた。堺の旧環濠内に位置する当山は、かつて寺領三千坪に及び、周囲一帯は経王寺前町と呼ばれ境内には七堂伽藍を擁しつつも、大阪冬の陣の兵火、太平洋戦争の戦火に罹り、寺領を大きく減らすこととなった。しかし、かつて泉州最古の日限七面大明神をお祀りしていた七面堂を改築して本堂とし、堂内には泉州一大きな仏像群を奉安するなど、歴代住職の尽力により今なお往時の繁栄の面影を今に伝える泉州屈指の名刹である。
当日は、泉州最古の日限七面大明神、征夷大将軍八幡太郎義家公の守本尊であった童子妙見大士、法華経由来の諸天善神等をお祀りした御宝前にて、修法師による御宝前修法、大衆法楽加持祈祷に併せ、当地堺を発祥とする「千巻陀羅尼」が、参拝者で埋め尽くされた堂内に響き渡った。
この「千巻陀羅尼」は天文法難に由来すると言われている。天文5年(1536)7月、延暦寺側の僧兵と宗徒が現在の京都市中に押し寄せ、洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山を悉く焼き払い、日蓮宗側に多くの死傷者を出した。洛中の日蓮教団は壊滅的な打撃を受け、この難から逃れた日蓮宗諸寺院の僧侶、殊に本山貫首様等は、京都と関係の深かった堺の末寺等に避難することとなった(本山妙覚寺は経王寺に避難)。
これら災禍を逃れた京都の日蓮宗僧侶と、既に当地に根を張りこれら困難に遭遇した人々を受け入れた堺の日蓮宗僧俗が一体となって、いつか京都へ帰れる日が訪れることを願い、堺の地にて、日々、陀羅尼咒を千巻お唱えするようになったことが、「千巻陀羅尼」の起源と言われている。
その後、6年の歳月を経て異体同心の願いは実を結び、帰洛の勅許を得て、京都の本山は十五に減ぜられつつも、これら十五本山を中心として、西日本における日蓮宗寺院は発展に大きく踏み出すこととなった。
佐野一秀住職は、この先人の労苦と切実な想いを後世へ伝えたいと「千巻陀羅尼」読誦を復活させ、若い管内修法師への修練の機会を与えると共に、檀信徒をはじめとする堺の人々を教化し、日蓮宗発展と法華経弘通に力を尽くしている。
最後に、法話を終えた佐野住職が、笑顔の参拝者に千巻陀羅尼開眼のお守りを手渡し、諸天善神・参拝者・出仕僧が、「千巻陀羅尼」によって感応同交した厳粛かつ熱気に満ちた大祭が幕を閉じた。