2019年4月10日
今、この時代、真の愛国心を問う
愛国心とは、何だろう。辞書では、ただ、「自分の国を愛する心」としか書かれていない。それ以外の説明はない。
なぜなのだろうか。
美しい言葉だとは思う。しかし、どこかに不気味さを感じると言ったら、この言葉に対して失礼になるだろうか。
日本を愛しているか? と問われれば、ハイと素直に答える。だけど、愛国心はありますか? と尋ねられるなら、すぐには返事できないという気持ちがある。
かつて我が国には、愛国心を持ってないと言えば、非国民と呼ばれる時代があった。
逆にその後には愛国心という言葉を口にすれば、時代遅れの人間のように思われ、仲間はずれにされるような時もあった。
そして今は? と考えるならば、私は、「国とは、なんだろう」と国民みんなが話し合うべきが時が来ていると提言したい。
それというのは、かのトランプ氏が、「アメリカ・ファースト」との政策を掲げ、大統領に就任して以来、USAには建国始まって以来の混乱が起こっているように思えるからである。
我が国、日本だって憲法改正の問題に関しては、そのことが喧しく論じられるだろうが、党利・党略しか頭にない政治家たちに、その答えを無理かもしれない。
それならば、国民1人ひとりが、ちゃんとした考えを持つべきではないだろうか。
そう思って、国という字を見つめていたら、おもしろいことに気がついたので、それについて述べてみたい。
この字は、昔は國と書いていたと言えば、年配の人なら、そうだったなと肯くだろう。
字源を調べると、小さな口という字は村を意味し、小さいそれを守るために戈(ほこ)が必要となり、武装し、やがて領域を意味するための大きな口の字で囲ってできたとの説明があった。
その名ごりは、地域の域という字にあると思っていたければいいだろう。国を守るためには、武装することが必要だと昔の人も考えたのだろう。
ところで、その國が、いつの間にか、国と書かれるようになったのは、一応、世の中が平穏になってからのことだろう。口という囲いの中は、戈が消え、玉という字に替わっている。
この字は、鉄砲の玉を意味するのではない。王という意味。
では、なぜ、王でははく、玉と書かれているのだろうか?
将棋の駒に王将と玉将の2つがあるのを思い出してほしい。
王将は上手が持ち、玉将は下手が持つ駒である。
すなわち、王は帝王を意味し、玉は覇王しか過ぎないのだ。
そう考えれば、かつての三国志の時代を彷彿させるような現代の国際情勢やトランプ氏を筆頭に大国を自負する世界の首脳の心の中が見え透いてくる。
そんな野望の下に、愛国心という言葉が弄ばれたのでは、国民は堪ったものではない。
そう思い到った時、改めて宗祖の願行である「立正安国」というお言葉と向かいあってみることにした。
立正とは、正しい法(教え)の下に国を安んじる、平和な世の中を築くという願いだということは、どなたもご承知だろう。
その『立正安国論』のご真筆にある国とうい字の囲いの中に、玉ではなく民とも読める字が出ていることに注目してしてほしい。
もちろん、そんな字は辞書にはない。しかし、宗祖の心にはその思いがあったに違いない。
来る4月28日は立教開宗の聖日。昇り来る旭日に、「我れ日本の柱とならむ」と誓われた宗祖の信念の中にこそ、愛国心の真の答えがあるような気がしてならないのである。
(論説委員・中村潤一)